ここまで元禄一揆、明和一揆と勝山で頻発した一揆についてみてきました。
今回は、ひっ迫した藩財政の中で、歴代藩主がこだわりぬいた勝山城再建の夢のゆくえを追ってみることにしましょう。
勝山城再建
勝山城は、柴田勝安が天正8年(1580)に袋田村の段丘上に築城し、村岡山の「かち山」の名をとって勝山城と名付けたことにはじまります。
その後、勝山の領主が次々と入れ替わるなかで、「一国一城令」によって勝山城も破棄されて廃城になっていました。
小笠原家が勝山に入封した時には、幕府代官の陣屋だけがかつての城地に立っている状況だったといいます。
通称七里壁とよばれる坂を上った高台にある旧城地には、陣屋部分を残して町家が立ち並ぶとともに、城跡の一部は古城跡新田として84石の田地へと変わっていたのです。
勝山小笠原家の悲願
いっぽう、小笠原貞信は、家督を継いだ時には関宿城主でしたが、その直後に藩主が幼少であったので、「城主にたえず」として美濃高須へと転封されてしまいます。
そこで、小笠原家の親族や家臣からしきりに幕府に対して城主に復帰できるよう陳情をくり返しましたが、聞き届けられることはありませんでした。
そして、貞信は成人すると城主格復帰の「愁訴」を続けて、勝山に移封されても、家督を子の信辰に譲ってもあきらめずに続けていたのです。
勝山城再建の許可
小笠原家の城主格復帰の悲願は、勝山入封からは勝山城再建の願いとなって年を追うごとに強まっていきました。
そしてついに宝永5年(1708)6月9日、先祖代々城主であった故を以て居城を営むべき旨、仰せ付けられたのです。
藩主信辰はさっそく7月に勝山に戻り、翌宝永6年(1709)正月、城主として迎年の式をあげ、15日古例の弓始式を行うといった具合で、まさに大喜び。
4月には旧城地を利用して築城する具体的計画を幕府に届け出ると、7月に許可が出たのです。
城の縄張り
城の設計は江戸の軍学者山鹿藤介に依頼しましたが、その縄張りは梯郭式で、櫓台(天守台)を中心に、本丸・二ノ丸・三ノ丸を築き、堀と土居で固めようとするものでした。
とはいえ、旧城地はすでに家中屋敷や町家が立ち並んでいて、かつての勝山城のような、十分な面積をとることはできそうもありません。
また、前にみたように藩財政は極めて厳しい状況でしたので、城は最低限ともいえる可能な限り簡略化せざるを得ませんでした。
工事開始
新規の工事が必要となったのは、二ノ曲輪と三ノ曲輪の349間の堀、同じく土居397間、橋二か所、柵五か所、塀525間、本丸櫓台二か所、三ノ曲輪一か所など最低限といえるもの。
さらに、旧城の遺構のうち、堀291間を浚いなおし、蔀曲輪は土居・石垣も再利用し、土橋もそのまま使うことにしました。
城の西北にある沼はそのままにして濠のかわりとし、城より南に家中屋敷を配する形としたのです。
こうして新しい城は、古城跡が総坪数31,898坪と比べるとおよそその半分、そのコンパクトさが実感できますね。
ちょっとずつ工事
ここまで簡略化した城ですが、藩の財政状況をみると一気に作り上げるのはほぼ不可能。
というのも、費用はもちろんのこと、人夫の徴発が必要となりますが、前にみたように一揆が続発する当時の状況ではとてもできそうにありません。
そこで藩は、無理をして築城するのではなく、可能な範囲で少しずつ工事を進めていく方針を立てました。
たしかに、この方針が現実的ではありますが、防御施設の「城」としての機能は諦めることになりますから、かなり思い切ったやり方であるといってよいでしょう。
天守完成
まずは城の象徴たる天守を完成させましたが、ほかの工事は進まないなか、藩主信辰が死去して工事は中断してしまいます。
天守閣だけの城とは、まるで現代のようですが、享保期に入ると洪水や火災が相次いで、藩財政の困難を極める中で御用金を課さざる得ないことも多くなって、工事再開のめどが立ちませんでした。
ついに着手した勝山城再建、小笠原家の悲願は無事に成就するのでしょうか。
次回は、勝山城再建事業のゆくえを見届けましょう。
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