勝山藩上屋敷跡を歩く 後編【越前国勝山藩(福井県) 43】

前回は勝山藩上屋敷跡まで歩いて藩邸の歴史を半ばまでみてきました。

そこで今回は、安政江戸地震からの歴史をたどり、散策の後半を楽しみましょう。

安政江戸地震

江戸は災害の多い都市でしたが、江戸城外濠内にあって大名屋敷が集まる大名小路も例外ではなく、火災をはじめとする多くに災害に見舞われてきました。

その最大級のものが安政2年(1856)に発生した安政江戸大地震で、大名小路に被害が集中したのです。

大名小路の多くの屋敷が消失し、隣の三上藩遠藤家上屋敷は消失、越前勝山藩上屋敷では死傷者10名で邸内の長屋が焼けるなど大きな被害が出ています。

安政大地震絵〔部分〕(安政頃 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【安政大地震絵〔部分〕安政頃 国立国会図書館デジタルコレクション】

地震被害が大きかった大名小路

じつは、この地震で江戸の町全体に大きな被害が出たものの、なかでも大名小路付近で屋敷の焼失や死傷者が多くでるといったように、被害が集中しました。

被害が拡大した原因の一つが、災害発生初期に定火消屋敷が消失して甚大な被害を受けたことが考えられます。

勝山藩上屋敷と松平采女屋敷(「大名小路-神田橋内 内櫻田之図」〔部分〕景山致恭(尾張屋清七、嘉永2年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【勝山藩上屋敷と松平采女屋敷(「大名小路-神田橋内 内櫻田之図」〔部分〕景山致恭(尾張屋清七、嘉永2年)国立国会図書館デジタルコレクション)】

松平采女屋敷

定火消とは、幕府が設置した防火・消火組織で、切絵図にある「松平采女屋敷」がこれにあたります。

幕府は、明暦の大火(1657)の翌年に、江戸城への延焼防止のため冬の季節風の風上に当たる江戸城の北と西に4か所に消防組織である「定火消」を置きました。

その後、組織は発展して、江戸城周辺10か所の定火消を置く体制に拡充さています。

定火消を命じられたのは旗本で、火消屋敷に家族で常駐し、配下の与力(6名)、同心(30名)、火消人足(100~200名)で武家屋敷地域の消火を担っていたのです。

(内閣府防災情報Webサイト「1855安政地震」、中村操・松浦律子2011より)

小笠原長守(Wikipediaより20211010ダウンロード)の画像。
【安政江戸地震当時の藩主・小笠原長守(Wikipediaより)】

地震の被害

安政江戸地震では、定火消が機能を停止してしまったことで、大名小路での被害が拡大してしまいました。

勝山藩邸も、記録に残る長屋の焼失だけでなく、おおくの建物が震災被害にあいましたので、大部分を建て替える必要に迫られたのでしょう。

そしてこの藩邸再建費用をねん出するために、藩主小笠原長守が藩政改革にまい進していた家老の林毛川たち藩重臣を処分して改革を頓挫させたのは第25回「長山講武台建設と藩政改革のゆくえ」でみたところです。

勝山藩上屋敷の移転

勝山藩がようやく上屋敷を復興させた直後の慶応4年(1868)9月5日、新政府は藩邸の整理方針を発表し、その整理に着手しました。

『東京市史稿 市街編49』には、これにともなう勝山藩関係の通達二通が記されています。

ただ、記事は小倉藩小笠原家と唐津藩小笠原家、そして勝山藩小笠原家を取り違えるなどそのままでは整合しません。

ですので、ここでは勝山藩小笠原家の馬場先内屋敷(大名小路の上屋敷)が信濃国小諸藩牧野家の久松町屋敷に移されたことだけを確認するにとどめておきます。

勝山藩上屋敷跡付近〔部分〕( 「明治東京全図」明治9年(1867)国立公文書館デジタルアーカイブ)の画像。
【勝山藩上屋敷跡付近 「明治東京全図」〔部分〕明治9年(1867)国立公文書館デジタルアーカイブ 「壹番地」と書かれた場所が勝山藩上屋敷跡地です。】

移転後の跡地

こうして、明治元年(1868)に大名小路にあった勝山藩上屋敷は久松町に移り、上地されました。

『明治東京全図』には、勝山藩邸と隣接する天童藩邸、三上藩邸の境界は取り払われて陸軍関係の「陸軍鎮台騎兵隊」「車両兵営」が置かれているのがわかります。

その後も陸軍関係の施設が置かれていましたが、三菱による再開発が進んで、最後この場所の北半分と隣の天童藩上屋敷を合わせた部分には三菱本館が建てられたのです。

関東大震災直後の東京駅丸の内(『大正震災写真集』関東戒厳令司令部 編(偕行社、1924)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【関東大震災直後の東京駅丸の内『大正震災写真集』関東戒厳令司令部 編(偕行社、1924)国立国会図書館デジタルコレクション  画面中央は丸ビル、その左に見えるのが三菱本館。完成したばかりで被害はほとんどなかったようです。】

三菱本館と三菱ビルディング

三菱本館は大正7年(1918)竣工の石造4階建ての壮麗なビルで、文字通り三菱財閥の総本山でした。

そして終戦後は、建物老朽化に伴って三菱本館は建て替えられて、昭和48年(1973)三菱ビルディングが竣工します。

今も残るこの建物は、機能的なデザインが目を引きますが、第15回BSC賞を受賞した、建築の世界では高い評価を受けているビルです。

ちょっと拝見したところ、現在は三菱化学など、三菱グループの大企業がテナントになっている様子です。

丸ノ内八重洲ビルヂング(Wikipediaより20211014ダウンロード)の画像。
【丸ノ内八重洲ビルヂング(Wikipediaより)】

丸の内パークビルディングと丸ノ内八重洲ビル

勝山藩上屋敷跡地の北半分は三菱本館から三菱ビルディングとなりましたが、南側はどうでしょう。

ここには昭和3年(1928)竣工の近代建築の丸ノ内八重津ビルヂングが建っていました。

このビルもまた日本建築家協会から保存要望書が出されたほどの日本の近代建築を代表する名建築だったのです。

現在は、周囲にあった三菱商事ビルヂング、古川ビルヂングと合わせて再開発がなされて、平成20年(2008)に丸の内パークビルディングに建て替えられました。

なお、建て替えにあたっては、丸ノ内八重洲ビルヂングの一部をファサード保存してビルの外壁として保存活用しています。

丸の内パークビルディングのファサードとして保存活用されている八重洲ビルディング外壁の画像。
【丸の内パークビルディングのファサードとして保存活用されている八重洲ビルディング外壁】

そろそろ散策に戻りましょう。

三菱ビルディングの北西角を曲がると、向こうに東京駅が見えています。

振り返って100mほど西に進むと、日比谷通りにいたり、ここに地下鉄千代田線二重橋駅の入り口があります。

さらにその向こうには馬場先濠をへだてて皇居外苑、さらには皇居が広がっているのです。

このまま東京駅丸の内南口に戻って今回の散策は終了です。

東京駅丸の内駅舎の画像。
【東京駅丸の内駅舎】

平坦な約800mの短いコースでしたので、勝山藩上屋敷跡の隣にあった天童藩上屋敷や、その東100mほどのところにある津山藩鍛冶橋上屋敷跡などを訪れてみてはいかがでしょうか。

また、話に出てきたKITTEや三菱一号館、丸ビル、さらには皇居と皇居東御苑(旧江戸城本丸)、二の丸庭園なども近くにありますので、こちらもおすすめです。

丸の内ビル群の画像。
【丸の内のビル群】

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など:

「大名小路 神田橋内 内櫻田之図」景山致恭(尾張屋清七、嘉永2年)

「明治東京全図」明治9年(1876)

『東京市史稿 市街編49』東京都 編集・発行、1960

『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)

『江戸幕藩大名家事典』上巻、小川恭一編(原書房、1992)

「1855年安政江戸地震の被害と詳細震度分布」中村操・松浦律子『歴史地震』第26号歴史地震研究会、2011

「災害に学ぶ」国立公文書館Webサイト、内閣府防災情報Webサイト、日本建設業連合Webサイト

千代田区および事業者設置の案内板

参考文献:

『中央区年表 明治文化篇』東京都中央区立京橋図書館、1958

『江戸・東京 歴史の散歩道2 千代田区・新宿区・文京区』街と暮らし社編(町と暮らし社、2000)

次回は本所横川端の勝山藩下屋敷跡を歩きましょう。

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