前回は大横川に架かる橋などをみながら勝山藩の本所横川端下屋敷跡を歩いてみました。
今回は、下屋敷についておさらいした後に散策の後半を楽しみましょう。
勝山藩本所横川端下屋敷
勝山藩の拝領下屋敷は、三つの部分からなっていたといいます。
一つは拝領屋敷の本体で、広さ1,742坪、そのうち塀で囲んで締め切りとした土地が666坪余ありました。
二つ目は拝領屋敷に隣接した預地で、広さは183坪、そのうち9坪は辻番所となっています。
三つ目は拝借地で、同じく拝領屋敷に隣接、広さは472坪でした。
これらを合わせた2,397坪、そこから辻番所の用地9坪を差し引いた2,388坪が下屋敷として一体に使われていたようです。
広さからみると、安政2年(1856)時点で上屋敷の広さは3,866坪余でしたし、ともに石高に見合ったこじんまりした規模といってよいでしょう。
本所五目の下屋敷とさざえ堂
勝山藩下屋敷は、元禄のころ(1688~1704)から幕末の入るまでの150年間、ずっと本所五目、深川の五百羅漢寺の南隣にありました。
五百羅漢寺は寛保元年(1741)に建立された三匝堂(さんさどう)、通称「さざえ堂」で広く知られたお寺です。
「さざえ堂」は内部が3層の螺旋状をしていて、同じ通路を通らずに上り下りができるうえ、道内を一巡すると観音霊場巡りができると、江戸っ子たちの人気を集めていました。
弘化年間(1844~48)の暴風雨や安政地震で荒廃してさざえ堂は取り壊されて、五百羅漢寺も目黒に移転しています。(「錦絵で楽しむ江戸の名所」国立国会図書館Webサイト)
江戸の名所でランドマークとなっていた「さざえ堂」が隣とはいえ江戸のはずれから、横川端への屋敷地変更は、かなり利便性が増したのはいうまでもありません。
明治時代以降
勝山藩本所大横川端下屋敷は、設置からわずか20年ほどで廃藩置県により上地となりました。
「明治東京全図」をみると、この場所は空白となっていて、再開墾されて田畑となっていたとみられます。
ただ、法恩寺前には俗に法恩寺前とよばれる町屋があって、これがこの場所まで一部は広がっていたのかもしれません。
その後、明治2年(1869)に太平町がたてられて1~2丁目がもうけられ、明治5年には戸数322、人口1,226(『東京府志料』)、明治11年(1878)からは本所区に所属しました。
太平町の名は、町の範囲が柳島出村町、南本所出村町、北本所出村町、中之郷代地町、深川元町代地町など、さまざまな町を含んでいいてまとまった地名がなかったことから、慶賀の意味を込めて新たに命名したものです。
その後、本所・深川一帯が日本の近代化とともに江東工業地帯(深川工業地帯)として発展すると、この付近にも工場や住宅が立ち並んでいきました。
また、錦糸町が地域の歓楽街として発展するにつれて、この地域も住宅が密集するようになります。
関東大震災や東京大空襲で壊滅的被害を受けるもののその都度復興し、昭和42年(1967)には町名変更がなされて、現在の太平1~4丁目が成立しました。
法恩寺橋
ここで先ほど見た法恩寺橋について、あらためて見ておきましょう。
法恩寺橋は本所奉行徳山五兵衛と山崎四郎左衛門によって万治2年(1659)に創架されたと伝えられています。
橋の名は、橋の東にある名刹法恩寺に由来し、長7間、幅2間の板橋でした。
関東大震災からの復興事業で、大正14年(1925)に長さ32.8m、幅22.2mの三径間複合橋に架け替えられまています。
この橋は、橋の両端にアーチ型ラーメン構造の橋台をもつ鋼鈑橋で、のちに「復興局型」ともいわれる震災復興事業特有の形式の初期のものです。
コンクリートに貼石した橋台や、大谷石でつくられた親柱はデザイン性にも優れており、その品格を感じさせるたたずまいから、近代橋梁建築の傑作とされていました。
しかし、保存論争を巻き起こした末に、老朽化により中央径間部分が昭和57年(1982)にPC式単純床版橋に架け替えられています。
それでは、散策に戻りましょう。
このまま大横川親水公園を南下して長崎橋跡まですすみ、北斎通りを左折して東に進むと、およそ700mでJR総武線錦糸町駅北口に戻れます。
もし余裕があれば、法恩寺橋から北東に200mほどのところにある名刹法恩寺を音連れてみてはいかがでしょうか。
法恩寺
法恩寺は太田道灌が江戸城に構えた小庵を、長禄2年(1458)に寺としたのにはじまる古刹です。
その後、何度か移転を繰り返したのち、元禄元年(1688)に現在地に移りました。
江戸時代には大伽藍と12の塔頭をもつ大寺院で、本所のランドマークとなっていて、池波正太郎『鬼平犯科帳』でもたびたび登場しています。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
「本所絵図」戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永5年)
「明治東京全図」明治9年(1876)
『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』石川悌二(新人物往来社、1977)
『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)
『江戸幕藩大名家事典』上巻、小川恭一編(原書房、1992)
『江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区・台東区・墨田区・江東区』街と暮らし社 編集・発行1999
「錦絵で楽しむ江戸の名所」国立国会図書館Webサイト
墨田区設置案内板、江東区土木部河川公園課設置説明板
参考文献など:
『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』鈴木理生(柏書房、2003)、
墨田区Webサイト
次回は小笠原家久松町邸跡を歩いてみましょう。
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