前回みたように、関ヶ原の戦功により、浅野氏は紀伊国に転封となり、一門で家老の忠吉は新宮に入りました。
着々と領国経営を進める浅野家の前に、大きな問題が起こります。
そこで今回は、大坂の陣と北山一揆についてみてみましょう。
北山一揆(熊野一揆)
浅野幸長が病没し、弟の長晟が藩主となって間もない慶長19年(1614)、大坂冬の陣が起こります。
長晟にも出陣が命じられたので、新宮の浅野右近太夫忠吉とともに、大坂へ向かったのです。
このスキをついて、奥熊野や大和国北山郷の土豪達が一揆しました。
これは、慶長検地では家改めも行われたので、土豪達は社会的地位を失い、百姓農民となったことへの反発が原因だったといいます。
土豪達は、天正検地に続いて、慶長検地で経済基盤を失ったうえに、身分まで失うこととなっていたのです。
これはまた、大坂方と結んだ北山郷の山伏たちが働きかけた結果、浅野家の統治に不満を持つ土豪達が集まったのでした。
一揆勢は尾呂志付近から相野川に沿って南下し、新宮対岸の鮒田村、現在の三重県南牟婁郡紀宝町鮒田に布陣して新宮城攻撃を目指します。
ところが、目の前の熊野川を渡る手立てがみつかりません。
そこへ慶長19年(1614)12月、逆に浅野家を支持する領民が新宮へ集結、この軍勢が川を渡って一揆軍に攻めかかったのです。
まったく予想外の攻撃をうけて、一揆軍はあっさりと敗走しました。
北山一揆のその後
この新宮に集まった勢力は、いったいどういうものだったのでしょうか。
このとき、熊野の山地から産出される豊かな山の産物が沿岸部で集積されて、地域外への売り出すという新しい流通がはじまりつつありました。
これに期待する沿岸部住民が集まって浅野家に味方したのです。
こうして鮒田村での勝利はすぐさま大坂の長晟へと伝えられ、徳川家康の耳にも入ることになりました。
その後、大坂で徳川と豊臣の和議が成立すると、幕府の指示により、長晟は全力で一揆の鎮圧にあたります。
忠吉はすぐさま新宮に戻ると奥熊野に進撃したところ、一揆勢は蜂起からわずか20日ほどで壊滅しました。
浅野家による厳しい探索が行われた結果、363もの人を処刑したのです。
こうしてようやく浅野家の支配体制が確立することができました。
御手伝普請
幕府は諸大名に命じる御手伝普請は、お家存続のためにも浅野家は従わざるをえませんでした。
慶長9年(1604)には幕府から江戸城改修に必要な石材運搬船の建造を命じられます。
幸長はすぐさま熊野地方の川筋と、奥熊野の主要な浦々に393艘もの石船の建造を割り当てています。
さらに、浅野左衛門佐と浅野右近太夫忠吉は家中を浦や村に派遣して石船の建造を急がせたのです。
これに加えて、左衛門佐を伊豆、忠吉を相模国真鶴の石切り場へ、それぞれ石工や夫役人夫を引き連れて出張らせます。
江戸城の後にも、慶長12年(1607)には駿府城、慶長14年(1609)には丹波篠山城、慶長15年(1610)には尾張名古屋城と、毎年のように御手伝普請にかり出されることになりました。
新宮城の築造
こうした中でも領地経営をおこたるわけにはきません。
浅野幸長は、入国の翌年、慶長6年(1601)に和歌山城の普請に入るとともに、城下町の整備を行いました。
新宮に入った忠吉も、熊野川沿いの小高い丹鶴山に城を築き、熊野速玉神社の門前町を取り込んで新宮の城下町をつくったのです。
新宮城と城下町については、次回で見ることにしましょう。
浅野家国替え
ここまで見てきたように、浅野右近太夫忠政は、浅野家の重臣として新宮を領するとともに、国作りに勤めてきました。
浅野家も、幸長と長晟の二代にわたって幕府に忠誠をつくしつつ、領国経営の基盤つくりに励んできたのです。
こうしたなか、幕府から浅野家に安芸広島への国替えが命じられます。
これに伴って、新宮城主の浅野忠吉も備後三原3万石へ移封となり、新宮を去りました。
こうして領主不在となった和歌山に、徳川家康の10男・徳川頼宜が将軍秀忠の命により天和5年(1619)7月に駿府から転封したのです。
そして新宮には付家老の水野重央(仲)が入封しました。
ここまで浅野家時代の新宮をみてきました。
次回は、浅野忠吉が築いた新宮城の歴史を、のちの時代まで一気に見てみることにしましょう。
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