前回見たように、何度目かの存続の危機を迎えた足利(喜連川)家、果たしてこのピンチをどう乗り切るのでしょうか?
今回は次々とピンチに見舞われる喜連川藩をみていきましょう。
徳川斉昭登場
喜連川(足利)家断絶の危機を救ったのが、なんと水戸中納言斉昭でした。
「ところが大日本史が一たん出来上がってみると、あの苦労人の光圀も足利家がすっかり立つ瀬がなくなっているのを見て、少し行き過ぎたと考えたものか「これでは将来、足利家に男系が絶えた場合、三百諸侯のうちだれ一人として養子縁組するものはあるまい。その時は水戸家から養子縁組するように」と言った、とわが家に伝えられている。」(「尊氏とわが家」)
この徳川光圀の遺言を奉じたのでしょうか、名門喜連川(足利)家がまさに断絶しようとする直前、宜氏が病没するわずか前々日に、徳川斉昭は自分の第十一子である昭縄を宜氏の養嗣子としたのです。(『旧華族家系大成』『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』)
喜連川(足利)縄氏(つなうじ:1848~1874)
天保15年(1844)常陸国水戸藩主徳川斉昭の十一男として生まれました。
先ほど見たように、文久2年(1862)5月十一代藩主宜氏の末期養子となり、家督を相続したのです。
この縄氏について、孫の足利惇氏はこう記しています。
「祖父は他の兄弟たちがみな大藩に養子に行っているのに、己れ一人野州の小藩にやられたことが不平で、一生うつうつとして送った」(「尊氏とわが家」)
徳川斉昭は37人の子沢山でしたので、御三家の一つ超名門水戸徳川家からは、徳川斉昭の男子といえば七男は十五代将軍となった慶喜、八男直侯は越前松平家、九男昭休は岡山藩、十男武聰は石見浜田藩、十六男昭嗣は肥前島原藩、十七男挙直は常陸土浦藩、十八男昭武は水戸藩を継ぎ、十九男昭則は会津藩、二十二男昭鄰は水戸藩支流の陸奥守山藩と、成人した男子の多くはそれなりのところと養子縁組しています。(『旧華族家系大成』)
確かに、家格では喜連川(足利)家は遜色ないどころか一番と言えるのでしょうが、実高をみると縄氏の嘆きももっともなことといえるでしょう。
さらに、前にみたように藩が実質的に破綻した状況ともなると、もうすっかりやる気が失せるのも納得です。
二階堂親子の反逆
こうして、嘉永6年(1853)ペリー来航からのはじまる幕末の動乱も、実父・徳川斉昭の死後はじまった水戸家の内訌も、いわば蚊帳の外で過ごしました。
ところが、大政奉還も終わり時代の趨勢がほぼ定まった慶應4年(1868)7月11日に、家老の二階堂貞明・貞則親子ら六人が、主君である喜連川(足利)家が会津藩と内通しているとの新政府へ訴え出るという衝撃的事件が発生します。
縄氏の事件への対応は素早いものでした。
二階堂貞明・貞則親子ら六人をとらえると、事実無根の讒言は主君への反逆であるとして六人を断罪、首謀者二階堂貞則を梟首、他の五人を斬首に処したのです。(『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』)
しかしなぜ二階堂貞明・貞則親子ら六人はそのような計画を立てたのでしょうか?
藩政改革失敗の悪影響
じつは、前回にみた十代藩主煕氏の藩政改革で責任者を務めたのが国家老の二階堂貞明だったのです。
藩政改革が失敗するなかで、煕氏が死去すると下士たちの不満が爆発して批判が貞明に集中、ついには隠居へと追い込まれていました。
これを逆恨みしたのか、まだ続く責任追及をかわそうとしたのか、貞明・貞則親子は新政府に主君縄氏が会津藩に通じているとの讒言を行うという手段に打って出たのです。(『藩史大辞典』)
この後の縄氏の素早い対応で喜連川藩は罪を免れたのですが、新政府への印象は悪化したのは当然のことといえるでしょう。
もちろん、会津藩主松平容保の養嗣子は藩主縄氏の弟・昭則なのは前にみたところですが、家中がこれだけ混乱する中で他事に手を出せたとは思えません。
ですから藩主・縄氏は、ここで家中の対立を鎮めるためにも、二階堂親子を断罪して二階堂家を取り潰す厳しい態度に出たのだと思われます。
喜連川藩出兵
そして新政府への恭順を示すためか、慶応4年(1868)会津戦争に一番隊野田辰蔵二番隊杦本欽之助の二隊が出兵しています。
両隊は肥前佐賀藩に従って進軍、8月25日に着陣して会津若松城攻撃に参加し、佐賀藩部隊の斥候を務めました。(『太政官日誌 明治紀元戊辰冬年十月 第百十四』)
そして9月22日(新暦11月6日)会津藩が降伏し若松城を開城すると、捕えられた松平容保親子と重臣たちを東京・千住まで護送しています。(『太政官日誌 明治紀元戊辰冬十二月 第百七十一』)
この松平容保親子とは、容保とその養嗣子となった喜連川藩主縄氏の弟、徳川斉昭十九男昭則のことですので、護送する藩士たちも感慨深いものがあったに違いありません。
その後、戊辰戦争などでの働きにより、明治2年(1869)4月には従軍の兵たちに毛布が下賜されています。(『三百藩藩主人名事典』)
話しを少しもどして、明治元年(1868)年号が慶應から明治に改められると、縄氏は江戸時代名乗ってきた「喜連川」の姓から本来の「足利」に姓を戻しています。(『旧華族家系大成』)
もはや徳川家に遠慮する必要がなくなった、ということでしょうか。
明治2年(1869)4月には縄氏が病気となっため、宮原侍従弾正大弼義路養方の弟延喜久を養嗣子に迎えて家督を譲って隠居、明治7年3月に齢31歳で亡くなりました。(『旧華族家系大成』『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』))
足利聡氏(さとうじ:1857~?)
聡氏は、安政4年(1857)4月13日に高家宮原方斎の二男として生まれました。
縄氏に子がなかったために明治2年(1869)5月、縄氏の養嗣子となり、養父縄氏の隠居にともなって、家督を相続し第十二代藩主となりました。
就任した直後の明治2年(1869)7月、版籍奉還によって、聡氏は喜連川藩知事に任じられます。(『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』)
そして明治4年(1871)の廃藩置県を待たずに、明治3年(1870)には7月18日に版籍を新政府に奉還をおこなって、喜連川藩領は日光県に吸収されました。
この日光県というのは、明治2年(1869)に日光や下野国内の幕府領と旗本領を管轄するために明治政府が作った行政機関です。
その後、明治4年(1871)11月には下野国南部を中心に発足する栃木県に編入されたのち、明治6年(1873)には下野国北半の宇都宮県と栃木県が合併して、現在の栃木県が成立します。
ちなみに、栃木県の県庁所在地が栃木市ではなく宇都宮市に置かれたのは、この合併の影響です。(『地名大辞典』)
では、なぜ廃藩置県よりも前に足利(喜連川)家は諸陵を返納したのかというと、それはもちろん藩財政が破綻していたからにほかなりません。
もともと極度に悪化していた藩財政でしたが、九代藩主煕氏の積極的藩政改革でラストチャンスにかけるも失敗、ここに戊辰戦争の戦費が加わって、もうお手上げとなったわけです。
聡氏上京
領地を返納した聡氏は東京在住を命じられて上京、池之端の屋敷に入ると、翌明治4年新政府から現米百九十三石を家禄として永世下賜されることになりました。(『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』)
こうして、聡氏は池ノ端七軒町19番地の邸宅でようやく落ち着いた生活を送れることになりました。
ところがなんと、隠居した先代縄氏に明治2年(1869)男子が誕生したのです。(『華族総覧』)
縄氏の事情
じつはこのころ、先代縄氏の周辺が少し騒がしくなっていました。
病弱のために明治2年(1869)5月5日を以て若くして隠居した縄氏ですが、明治2年に長男於菟丸、明治5年(1872)10月に次男亀三郎があいついで生まれた後、妻の北海道松前(館)藩主松前崇広の長女武子と離縁しているのです。(『旧華族家系大成』)
実際に縄氏は前にみたように明治7年(1874)3月2日に31歳の若さで亡くなっていますので、たしかに体調が思わしくありませんでした。
しかし妻との離縁は縄氏の健康問題とは別問題、妻の実家に問題があったのか、はっきりした理由はわかりませんが、あるいは喜連川藩財政の破綻に関して借金問題が後を引いている疑いもぬぐいきれません。
その後、聡氏は於菟丸の成長を待って、明治9年(1876)9月3日に家督を譲って隠居、直後の9月25日に足利家から離籍しています。
残念ながら、その後の聡氏の足取りをたどることはできませんでした。(『旧華族家系大成』『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』)
ここまで幕末から明治はじめの足利(喜連川)家をみてきました。
次回は幼くして名門華族を継承した於菟丸についてみていきましょう。
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