前回、津山藩も、シンボルだった津山城も消えてなくなってしまいました。
その後、津山松平家はどうなってしまうのでしょうか?
そこで今回は、明治から終戦までの津山松平家をみていくことにしましょう。
松平康民(まつだいら やすたみ・1861~1921)
明治10年(1878)、康倫が没すると、斉民五男の康民が家督を相続しました。
その後、明治17年(1885)の叙爵で康民は子爵に叙せられています。
ちなみにこの時、福井松平家は伯爵に叙せられたのですが、勝海舟が中心となって昇爵運動が起こったのです。
これは、幕末の福井藩主・松平慶永(春嶽)が幕末維新に多大な功績を顕彰する目的がありました。
そして、新政府は勤皇の観点では旧福井藩を高く評価していたので、この運動が成功して、明治21年(1888)には伯爵だった福井松平家が侯爵に叙せられたのです。
これに衝撃を受けた津山松平家は、福井松平家に対して本家意識を強烈に持っていましたので、勝海舟に依頼して伯爵への昇爵運動を始めました。
確かに松平春嶽の功績は大きなものであることは疑いの余地がありませんが、松平斉民の功績も負けてはいないという主張です。
運動は明治22年(1889)から明治27年(1894)の長きにわたって多額の費用を使いながら行われました。
この間、明治23年(1890)には康民は貴族院議員になり、翌明治24年(1891)には父の確堂斉民が没しています。(『華族総覧』)
長きにわたった昇爵運動は失敗しますが、確堂の勲功は政府に認められて、康春の弟・斉が分家して男爵に叙されました。
その後、康民は貴族院議員に当選すること五回、さらには日清・日露の戦いでの功績によって正三位勲四等・従二位に叙せられています。(『人事興信録 第6版』)
これは、両戦争で貴族院議員を務めた折の活動が評価されたのでしょう。
ところで康民は家督相続時には本邸を日本橋区蠣殻町の蛎殻邸としていましたが、明治16年(1883)ごろここを引き払いました。
本所区亀沢二丁目に一時仮宅を置いたあと、明治17年(1884)に本郷区龍岡町に「三千坪の豪邸」と呼ばれた本郷邸を本邸を移しています。
大正元年に康民は、東京市内だけでもこの本郷区龍岡町の本邸のほか、津山藩高田下屋敷に由来する牛込区喜久井町に6千坪の家作、本郷区高砂町に807.71坪の家作、駒込林町に宅地234.00坪・畑198.066坪と宅地227.00坪・畑4.282坪の2か所の家作を保有していました。(『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会、1912)
こうして康民の時代に津山松平子爵家は、大名出身の資産家華族へと変身を遂げたのです。
松平康春(まつだいら やすはる・1892~1972)
康民の長男康春は大正3年(1914)に死去し、次男康春が後継者となりました。
康春は明治25年(1892)生まれ、大正9年(1925)に明治東京帝国大学理学部植物科を卒業した後、侯爵蜂須賀正韶長女・年子と結婚し「夫婦相携へ歐米を漫遊」しています。(『人事興信録 第7版』)
そして大正10年(1921)に康民が没すると、康春が襲爵しました。
その後、大正14年(1925)には貴族院議員に互選されてから三期連続でこれを務め貴族院の最大会派だった研究会に属して活躍、後には朝鮮銀行監事も兼任しています。(『華族総覧』)
終戦後の華族制度廃止に伴って昭和22年(1947)に廃爵、昭和47年(1972)に死去しました。(『平成新修 旧華族家系大成』)
ここまで明治時代から終戦までの津山松平家についてみてきました。
この後、津山松平家は数々のスキャンダルで名をはせることになるのですが、次回はその最初、男爵失踪事件から見ていくこととしましょう。
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