前回みたように、大杉沢騒動はようやく収まりました。
しかし、騒動の背景には積み重なった社会の矛盾と、大きな時代の変化があったのです。
そこで今回は大杉沢騒動の背景を探ってみましょう。
騒動の背景
じつは大杉沢を含む奥山は、勝山町の惣持山でしたので、毎年48石7斗の山手米を藩に納めていました。
さらにこの山手米を納めるために、その費用分の伐採願を町方は藩に提出していたのです。
しかし、奥山は周辺の村人にとっても貴重な「秣山」でしたので、町から山札を購入して柴や薪を採取していたのです。
ですから、村民にとっては、勝山町が奥山を勝手に処分するのを見過ごすことはできません。
そのうえ、杉木伐採や炭焼きも、寛政におこった水害のことを思い起こして、不安でしかなかったのです。
こうしてみると、前回みた一揆和解条件のうち前半の二条は、村民としては意味当然といえるかもしれません。
騒動の真相
では、最後の条はどういう意味を持っていたのでしょうか。
じつはそこがこの騒動のカギとなっているのです。
江戸時代に中ごろから、山深い勝山でも貨幣経済が浸透していたうえに、このころ物価高騰がおこっていました。
勝山でのコメの小売り平均相場をみると、文化年間には1俵(4斗6升)がおおむね20匁で推移していたものが、文政8年と11年は30匁近くまで上昇して、村々の暮らしに影響を与えていました。
これに加えて、この数年間は不作がちで、村々から藩へ救助米などの願いが出される状況だったのです。
不満爆発
こうして溜まりに溜まった農民たちの藩政策や町方への不満が、大杉沢の一件で爆発したのです。
ですので、前にみた元禄十年一揆や明和八年一揆のような計画性はありませんし、組織的でもありません。
さらに、同じように不満を持っていた他藩の領民までもが参加していることをみても、勝山で封建制が行き詰まった状況にあることを教えてくれるのです。
郡上藩領文政一揆
この後、文政11年(1828)7月27日に、郡上藩領の野津又村で、蓮如上人ゆかりの古杉を勝手に切り倒したことヲきっかけに、これまでにない規模の一揆が起こっています。
参加した村は41ヶ村で、郡上領をはじめ、勝山領、鯖江領、福井領、天領と、勝山地方一帯の人々でした。
彼らは木を切った割元伝兵衛の家を打毀した翌日、勝山の町へ押し寄せようとしていたのです。
彼らが不満としたのは、福井藩の藩札に対して勝山藩の藩札が割高となっていることと、勝山の米価が高いことなどでした。
こうして勝山地方に住む人々は、藩の領域を超えて行動を起こすようになっていたのです。
じつは、これこそが騒動拡大の最大の要因だったといってよいでしょう。
幕藩体制はもやは倒壊寸前、勝山藩はこの後どうなってしまうのでしょうか。
次回は、越前勝山藩小笠原家、最後にして最大のチャレンジ、林毛川の藩政改革をみてみましょう。
《大杉沢騒動については、『福井県史』『物語藩史』『日本地名大事典』『国史大辞典』『福井県の歴史』に基づいて執筆しました。》
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