前回は大浜主水事件を、実質的勝利の幕府裁可を勝ち取って、藩主盛利が五島藩存続の危機を乗り切るところをみてきました。
しかし、これですべてうまくいく、という風にはならなかったのです。
今回は、その後も長く尾を引いた事件の後始末についてみてみましょう。
事件の処置
幕府の裁可が下りた後も、藩主盛利は江戸での事件の後始末に7年もの時間をかけることになってしまいました。
もちろんその間は「福江直り」も中断となりますので、藩政の確立は進みません。
ともかく、幕府から「藩主了簡次第」とされた千鶴丸を養子に迎えて主水派の懐柔を図った結果、ようやく主水派の怒りが収まって、盛利は五島へ戻ることができたのです。
盛利、牙をむく
ところが帰島した盛利がまずやったことは、主水に味方したものに対して、死罪・流刑・減俸などの厳しい処分を行ういっぽうで、藩主に味方したものには家禄を加増し、侍取立などのいわば恩賞を与える処置に出たのです。
盛利は大浜主水事件での幕府の裁可を逆手にとって、ここで一気に領主権を確立する「福江直り」を進めたのでした。
これについては、次回に詳しくみてみましょう。
事件は続く
いっぽうの大浜主水は江戸にとどまって、なおも藩主継嗣に非があること、さらに玄雅の遺子千鶴丸・孫三郎の不審死を毒殺と怪しんで訴え続けました。
これに対して今度は逆に、万治2年(1659)3月、藩主盛勝は主水が家臣として従わないのに知行がそのままとなっているとして、先代藩主盛利の時の事件内容を附して幕府に訴えたのです。
こうして寛文5年(1665)4月16日に主水は江戸で訴えが通らぬまま死去し、小石川伝通院に葬られました。
ところがその後、主水の子・彦右衛門玄道が父主水の無罪と大浜氏継嗣を訴え出て、家老評定所に出府したのです。
ここに至って、ときの藩主盛佳は元禄11年(1698)6月7日、幕府に対して大浜彦右衛門の始末伺書を提出し、その解決策の裁可を待ちました。
幕府の裁可
幕府は彦右衛門を呼び出して吟味した結果、大浜彦右衛門の知行地は没収、蔵米知行とし、その後の始末は藩主心次第、つまり藩主が決めてよいとする裁可を下しました。
ここにようやく世代を超えて争われてきた大浜主水事件は、藩主側の完全勝利のうちに最終決着をみたのです。
大浜主水事件は、中世的支配体制にあった五島家が近世的な支配体制を確立するうえで避けては通れない問題をみせてくれる、典型的な初期型お家騒動といえるでしょう。
ここでようやく五島にも近世という新しい時代が本格的に幕を開けるのです。
しかし、大浜主水事件が解決をみるまでには、藩主が盛利(1591~1642)、盛次(1618~1655)、盛勝(1645~1678)、盛暢(1662~1691)、盛佳(1687~1734)と五代も替わって、およそ80年もの月日を費やしてしまいました。
次回は、少し時間を巻き戻して、盛利治世の「福江直り」の完成をみてみることにしましょう。
(大浜主水事件については、『物語藩史』『三百藩藩主人名事典』『三百藩家臣人名事典』『海の国の物語』に拠りました。)
コメントを残す