天童藩鉄砲洲築地下屋敷跡を歩く【維新の殿様・織田家出羽国天童藩(山形県) ⑲】

《最寄駅: 東京メトロ有楽町線 新富町駅、東京メトロ日比谷線駅 築地駅》

天童藩は、幕末に大名小路に上屋敷、鉄砲洲築地に下屋敷を構えていました。

今回はこのうち、現在の東京都中央区築地3丁目2番地付近にあった下屋敷跡を訪ねてみましょう。

今回のコースは、東京メトロ有楽町線 新富町駅4番出口からスタート、東京メトロ日比谷線駅 築地駅3a・4番出口(進行方向で入り口が変わります)がゴールのおよそ600mです。

天童藩鉄炮洲築地下屋敷跡散策コースマップの画像。
【天童藩鉄炮洲築地下屋敷跡散策コースマップ】

(グーグルマップは天童藩鉄炮洲築地下屋敷跡東隣の築地川公園デイキャンプ場を示しています。)

天童藩鉄砲洲築地下屋敷を歩く

東京メトロ有楽町線 新富町駅4番出口から地上に出ると、すぐ横を新大橋通りが走っています。

それでは、この新大橋通りを南西方向の旧築地市場方面に進みましょう。

20mほどで最初の信号の築地三丁目北交差点に到着、ここで新大橋通りを渡って、東に進んでください。

交差点から東に進んで道の南側・右手にある二つ目のブロックが天童藩鉄砲洲築地下屋敷の推定地、そのすぐ東には直角に折れ曲がった築地川の跡が見えています。

この辺りはマンションやホテルが立ち並ぶ静かな場所で、下屋敷跡地周辺をじっくり歩いても、江戸時代の痕跡を見出すことができませんでした。

こんどは、天童藩鉄砲洲築地下屋敷跡のすぐ東を流れていた築地川の跡に沿って進んでみましょう。

すると、駐車場とデイキャンプ場を越えると、手入れの行き届いた美しい公園に到着しました。

これが築地川公園で、その名の通り昭和46年(1871)に築地川を埋め立て、平成元年(1898)に公園として整備したところです。

旧築地川(現・築地川公園)暁橋後から南方向を望む画像。
【旧築地川(現・築地川公園)暁橋後から南方向を望む】

この公園で休憩しながら、天童藩鉄砲洲築地下屋敷についてさらいしてみましょう。

天童藩鉄砲洲築地下屋敷

前に見たとおり、江戸時代に織田家は、上野国小幡、出羽国高畠、そして出羽国天童と、三度にわたって居所を移さざるを得ませんでした。

しかし、江戸藩邸のうち下屋敷についてみてみると、元禄8年(1698)は溜池端、宝暦12年(1762)から寛政11年(1799)までは溜池上と場所が変わっていません。

ところが、安政2年(1856)には鉄砲洲築地へと位置が大きく変わっています。(『江戸幕藩大名家事典』上巻、小川恭一編(原書房、1992))

天童藩鉄炮洲築地下屋敷(「築地 八丁堀 日本橋南之図」景山致恭(尾張屋清七、嘉永2年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【天童藩鉄炮洲築地下屋敷「築地 八丁堀 日本橋南之図」景山致恭(尾張屋清七、嘉永2年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

切絵図でもこの位置にあることから見て、嘉永年間(1848~55)にはこの地に移ったのでしょう。

安政2年(1856)時点で上屋敷の広さは2,015坪余と、石高に見合った規模になったといえるのかもしれません。

その後、明治4年(1871)11月に廃藩置県により東京へと移った信学・信敏父子は、かつての天童藩上屋敷を下賜されてそちらに移り、築地の下屋敷は上地となって町地となったのです。

天童藩築地下屋敷跡付近(「明治東京全図」明治9年(1876)国立公文書館デジタルアーカイブ )の画像。
【明治9年の天童藩築地下屋敷跡付近「明治東京全図」明治9年(1876)国立公文書館デジタルアーカイブ 十三・十四・二十・廿一付近が屋敷跡とみられます。】

ところで、天童藩下屋敷があった築地とはどのような場所だったのでしょうか?

次に築地の歴史を見てみましょう。

築地誕生

築地とは、文字通り海を埋め立てて新たに築いた土地でした。

明暦3年(1657)数万人もの犠牲者を出した明暦の大火で、中央区横山町付近にあった西本願寺の別院・江戸浅草御堂も焼失してしまいます。

その再建にあたって、幕府から八丁堀の海上が下付されましたので、海を埋立て、土地を築いたのです。

これが築地の名の由来となりました。

ちなみに、「鉄炮洲」とは現在、鉄砲洲神社のある中央区湊1丁目・2丁目あたりを言いますが、この本願寺復興時に幕府から下付された範囲、つまり現在の湊1~3丁目、明石町、築地一帯の埋め立て地を合わせて、鉄砲洲と呼んだわけです。

こうして明暦の大火での復興によって、隅田川河口部にあたるこの付近一帯が開発されますが、築地は本願寺を境に南は寺院と武家地、いっぽう本願寺より北は武家地となりました。

「江戸百景余興 鉄炮洲築地門跡」(歌川広重 足立区郷土博物館)の画像。
【「江戸百景余興 鉄炮洲築地門跡」歌川広重 足立区郷土博物館 本願寺の大屋根は築地のランドマークでした。】

築地の北半をくわしくみると、江戸時代を通じてその多くが武家地となっていましたが、このなかには大名の中屋敷や下屋敷のほかにも、中下級武士の邸宅も多く配されていたのです。

なかでも、尾張徳川家は船が出入りできる大きな池を持つ蔵屋敷を建てて、米や木材のほか、国元で焼かせた瀬戸物を運び込んで、御用商人を通じて江戸市中で売りさばいています。(以上『地名大辞典』、「築地の歴史探訪」)

今こうしてみても、築地の北部は武家屋敷の並ぶ場所だったとは、ちょっと想像がつきませんね。

幕末から明治初めの築地

安政5年(1858)の開港によって、江戸・大坂も開市場となり、修好条約を結んだ国の人が、居住と営業を行うことを認めた場所が設けられました。

これを居留地と呼びますが、江戸の居留地は築地、現在の明石町に築地居留地が誕生したのです。

築地居留地には各国の行使館や学校、教会がつくられて、西洋文化が学べる町として知識人が多く住みました。

「築地鉄炮洲景」〔中央部分〕(一曜斎国輝(大黒屋金次郎、明治2年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「築地鉄炮洲景」〔中央部分〕一曜斎国輝(大黒屋金次郎、明治2年)国立国会図書館デジタルコレクション 小山の奥に見える空き地が居留地です。】

またいっぽうで、築地には幕末、軍艦操練所が現在の築地6丁目につくられますが、慶応4年(1868)に廃止されてしまいます。

そして海軍操練所跡地に明治元年(1868)には外国人宿舎と民間の交易所を兼ねた築地ホテルが開業すると、錦絵に描かれる人気の名所となりました。(以上『歴史の散歩道』『地名大辞典』)

「築地鉄炮洲景」〔右部分〕(一曜斎国輝(大黒屋金次郎、明治2年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「築地鉄炮洲景」〔右部分〕一曜斎国輝(大黒屋金次郎、明治2年)国立国会図書館デジタルコレクション 大きく描かれているのがホテル館、手前の石垣が築地川護岸です。】

こうして文明開化の象徴的な場所となった築地ですが、このあと思わぬ悲劇が訪れます。

銀座大火

明治5年(1872)2月26日午後2時、和田倉門内の元会津藩上屋敷、当時の兵部省添屋敷から出火、折からの冬の乾いた風に乗って次々と延焼し、銀座から築地にかけて四十数カ町を焼失して午後10時ようやく鎮火しました。(『中央区年表』)

この火事による焼失地を現した『東京府下焼失跡測量家作図』によると、このとき旧天童藩下屋敷付近もほぼ全域が消失しています。

またこの火事で築地のシンボルだった築地本願寺と築地ホテルも消失して、築地の町は衰退するかに見えました。

「月百姿 烟中月」(芳年(秋山武右エ門、明治19年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「月百姿 烟中月」芳年(秋山武右エ門、明治19年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

銀座大火からの復興

ちなみに、この火事からの復興によって銀座は日本初の煉瓦街として生まれ変わり、「文明開化」の象徴として広く知られることとなったのは前回見たところです。

そして築地はというと、消失した築地ホテル跡地、すなわちかつての軍艦操練所に海軍兵学校(のちの海軍大学校)・軍医学校・兵学寮などの海軍施設がつくられて、築地は帝国海軍の発祥地となるとともに海軍の町として知られるようになります。(以上『歴史の散歩道』『地名大辞典』)

いっぽうで、復興した西本願寺のほかにも、明治11年に誕生した京橋区の区役所・警察署などの行政機関が置かれるとともに、待合茶屋や工場も多いにぎやかな街となったのです。

また明治32年(1899)には外国人の居住と営業の制約がなくなって居留地が廃止されましたが、現在も聖路加病院や築地カトリック教会など、多くの遺産を見ることができます。

こうして広い街路にプラタナスの並木が茂り、ガス街灯が街を照らす明石町あたりは、異国情緒あふれる街だったのです。(以上『歴史の散歩道』)

関東大震災

大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災は、東京に壊滅的打撃を与えました。

築地も例外ではなく、町の大半が焼失し多くの死傷者を出したのです。

焼失した海軍兵学校跡地には、日本橋にあった魚河岸が移転すると、昭和10年ごろから活気をみせて大いに発展し、日本最大を誇る中央卸売市場へと発展していきます。

また、築地本願寺も建築家・伊東忠太の設計により昭和9年(1934)このに復興して、地域のランドマークとなっています。

こうしてみなさんがよく知る築地の町が誕生するのですが、天童藩下屋敷のあった築地3丁目付近は、工場や倉庫と住宅が立ち並ぶ地域となりました。

その後、東京大空襲でも大きな被害を受け、築地市場も一時期米軍に接収されるものの、見事に復興し、世界に築地の名を知らしめる存在となったのはみなさんもご存じでしょう。

残念ながら築地市場は2018年10月に営業を終了して豊洲に移転しています。

暁橋と堺橋

それでは散策に戻りましょう。

前に見たように、築地川公園は昭和46年(1871)に築地川を埋め立て、平成元年(1898)に公園として整備したところです。

見えてきた小さな交差点もかつての橋の跡。

じつは築地川の橋は関東大震災からの復興事業で架けられた「復興橋」、名橋ぞろいの場所だったのです。

昭和7年(1932)の明石町周辺(中央区設置案内板より)の画像。
昭和7年(1932)の明石町周辺(中央区設置案内板より)の画像。

目の前にあったのが昭和2年(1927)竣工の暁橋、その下流が昭和3年(1928)竣工の堺橋で、ともに復興局が生み出した独自のスタイル「復興局型」の橋として知られていました。

暁橋跡地には橋名板、公園の中ほどには堺橋の親柱が、それぞれ詳しい説明をつけて保存されています。

暁橋跡から西の100mほど進むと新大橋通の築地三丁目交差点に到着、交差点を挟んで東京メトロ日比谷線駅 築地駅3a・4番出口が目の前です。

さて、今回は平坦なうえに距離も短いコースで、散策時間は45分でした。

物足りない方は、さきほど見た暁橋跡を東に行くと話に出てきた聖路加病院や築地カトリック教会をはじめ、見どころが多くありますので、こちらをめぐってみてはいかがでしょうか。

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など:

「築地 八丁堀 日本橋南之図」景山致恭(尾張屋清七、嘉永2年)

『東京府下焼失跡測量家作図』太政官、明治5年2月

「明治東京全図」明治9年(1876)

『官許貴家一覧 武家華族之部』雁金屋清吉、1873

『中央区年表 明治文化篇』東京都中央区立京橋図書館、1958

『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』石川悌二(新人物往来社、1977)

『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)

『江戸幕藩大名家事典』上巻、小川恭一編(原書房、1992)

『江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区・台東区・墨田区・江東区』街と暮らし社編(町と暮らし社、1999)

「築地の歴史探訪」、江戸東京博物館友の会会報『えど友』第94号、2016

中央区教育委員会設置の案内板

参考文献:

『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)、

『帝都復興事業誌 土木編 上巻』復興事務局編(復興事務局、1931)、

『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、1932)、

『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)、

『中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査-』(東京都中央区教育委員会教育課文化財係、1999)

『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』鈴木理生(柏書房、2003)

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