文化祭と学芸会・音楽会は同じもの?

学芸会っていつからあるのでしょうか?

また、文化祭と学芸会・音楽会の違いとは?

舞台で力いっぱい演技する児童たちの画像
【舞台で力いっぱい演技する児童たち。】

私もさっぱり分からなかったので、調べてみることにしました。

すると、知ってるようで案外知らない、面白い事実がたくさん見つかったのです!

そこで今回は学芸会を中心に、その成り立ちや歴史についてみてみましょう。

学芸会の歴史 目次文化祭と学芸会・音楽会は同じもの?:学芸会の歴史(前編)  ・ 主役は私!学芸会と音楽会の歴史 ・ 台東育英小学校の学芸会:学芸会その3

学芸会と文化祭、音楽会の違いは?

秋と言えば「文化の秋」、あなたも学校できっと学校行事に参加したのではないでしょうか。

ところでその行事の名前は、文化祭ですか?それとも音楽祭?あるいは学芸会かもしれません。

考えてみるとこの三者、いったいどこが違うのでしょうか?

音楽会は合唱と合奏なのはよいとして、それを言うなら文化祭や学芸会でも演奏がありますよね。

ちょっと頭が混乱してきたので、改めて三つの行事の違いからみてみましょう。

「唱歌」(『京都府第一高等女学校設立五十週年記念帖』京都府第一高等女学校、大正11年 国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「唱歌」『京都府第一高等女学校設立五十週年記念帖』京都府第一高等女学校、大正11年 国会図書館デジタルコレクション】

じつは、文化祭と音楽会、学芸会についての明確な規定はなく、その内容についてもいくつかの説が併存して結論が出ていません。

大まかに言うと、演劇を中心に舞台発表を行うのが学芸会、このうち合唱や合奏などの音楽関連を中心に舞台発表を行うものを音楽会、舞台発表に習字や絵画などの作品を展示発表するのを加えたのが文化祭と区別する見方が有力です。

またその一方で、三者は同じものとする見方も有力なのが実情なのです。

そこで、文化祭の歴史は別稿を用意したので、本稿では学芸会と音楽会についてみていくことにします。

学芸会と音楽会の起源は?

学芸会の起源については定説ななく、江戸時代に求める見解がある一方で、もっと時代が下った明治時代の近代教育にはじまるとする見解も有力です。

まずは江戸時代に起源があったとするものからみてみましょう。

これは、子供歌舞伎などの伝統行事と、都市部で盛んだった手習いの風習を重視する見方です。

江戸時代には、琴や三味線、長唄や小唄などの習い事の成果を発表するお浚い会が盛んに行われていました。

これは、まさに音楽会そのものですね。

直接的な繋がりはともかく、このように修得した技芸を披露するという考えが江戸時代から続いていることは、学芸会や音楽会が広まる下地になっていることは間違いありません。

また一方で子供歌舞伎は、舞台の上で子供が演じるうえに、場所によっては曲の演奏まで子供が行うのですから、確かに現在の学芸会に近いといえるでしょう。

「児童館(中部福祉センター別館)の音楽室」(戦後 西新井)の画像。
【「児童館(中部福祉センター別館)の音楽室」戦後 西新井】

このような流れを受けて、明治時代に入って小学校が作られると、成績優秀者に学習成果を発表させる行事が自然に出来上がります。

これは、就学効果を示すのが主な目的ですが、江戸時代からの伝統を引き継いだものといえるでしょう。

さらにこの行事は普及・発展して、近隣の学校が共同して「教育展覧会」を行うようになります。

その後の就学率の上昇に伴い小学校数が増加すると、「教育展覧会」も盛んに行われるようになり、次第に各学校単独での「学校展覧会」が開催されるようになっていったのです。

しかし、文部省が推奨して発展した運動会や遠足、修学旅行と対照的に、文化的行事の発展には積極的ではありませんでした。

「記念音楽会」(『創立六十年』熊本県師範学校・熊本県師範学校同窓会(熊本県師範学校、昭和8年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「記念音楽会」『創立六十年』熊本県師範学校・熊本県師範学校同窓会(熊本県師範学校、昭和8年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

「学芸会」と「音楽会」の誕生

この状況に変化が見られたのは、ドイツ・ヘルバルト派教育理論(ヘルバルトが教育学を体系化して生み出した教育思想と教育方法を継承・発展させた教育理論)が輸入された明治時代後期でした。

新しい教育理論と教育法が谷本富、大瀬甚太郎などにより日本にも伝えられると、急速に拡散していきます。

それはやがて、沢柳正次郎や鈴木三重吉らによって児童中心、生活主義、郷土教育を重視した新教育運動や自由教育運動へと発展していったのです。

そのなかでも学芸会は芸術教育運動や児童劇運動と結びついて重要な行事となっていきます。

もちろん、“school play”を和訳した「学芸会」、“concert”を和訳した「音楽会」の名称が生まれたのも、この時だったのです。

「音楽会」(『創立三十周年記念誌』岐阜商業学校創立三十周年記念祝賀協賛会、昭和9年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「音楽会」『創立三十周年記念誌』岐阜商業学校創立三十周年記念祝賀協賛会、昭和9年 国立国会図書館デジタルコレクション】

学芸会、音楽会の変容

こうして、生徒児童による表現学習を重要視するヘルバルト派教育理論が世界的潮流となったことから、政府はようやく唱歌や合奏、演劇などを積極的に教育に取り入れることになっていきます。

しかし、その内容を忠君愛国的・国家主義的なものを基調としたために、これに反するものは「演劇的行動」として取り締まることとなりました(『小学事彙』(文部省1904)、1909年 文部大臣訓令、1924年文部大臣訓示、同年文部次官通牒)。

こうして学芸会と音楽会は、その内容を教育重視から変化させながらも日本全国に広がることになったのです。

この学芸会や音楽会、現在の私たちから見るとちょっと違和感がありませんか?

そこで次回では、現在の学芸会が成立していく過程を見ていきたいと思います。

【学芸会と音楽会 目次】 学芸会・音楽会は同じもの? ・ 主役は私!学芸会と音楽会の歴史 ・ 台東育英小学校の学芸会:学芸会その3

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