宝暦の改革【筑後国柳川藩立花家(福岡県)31】

前回、柳川藩をゆるがす大事件、六代藩主貞則の暗殺事件をみてきました。

そこで今回は、貞則のあとを継いだ鑑通の時代をみてみましょう。

七代 鑑通(あきなお・1729~1797)

享保14年(1729)12月2日、貞俶の三男として柳川に生まれた。

生母は側室柴田喜右衛門の妹。

実兄貞則に世子がなく、突然の死だったので、延享3年(1746)8月に養嗣子となり、同年10月に家督を相続しました。

立花鑑通(Wikipediaより20211210ダウンロード)の画像。
【立花鑑通(Wikipediaより)】

宝暦の改革への道のり

享保年間(1716~36)以降、災害がたび重なったうえ、商品経済が発展していったことで、藩財政が悪化したのは、第26回「享保の改革」でみたところです。

しかし改革の成果が上がらぬまま事態は悪化を続けて、ついには小作農や奉公人の増加など没落する農民が相次いで農民層の階層分化が激しくなっていました。

この状況は年貢減収となって藩財政を直撃し、柳川藩の財政危機をまねくまでになったのです。

四ケ所通久登場

この状況を打破するため、藩主鑑通は、宝暦元年(1751)7月15日、四ヵ所通久を中老に抜擢します。

この通久は、文武にすぐれた人物で、日置流弓術と山鹿流兵学の師範でした。

四代藩主鑑任のときに部屋住のまま出仕、その後貞俶・貞則・鑑通と四代にわたって藩政にかかわってきた重臣で、延享4年(1747)には鑑通の弓師範役、さらに兵学師範役を務めています。

ここに柳川藩における宝暦の改革がはじまりました。

改革の具体的施策は、藩札の発行、踏車導入による米の増産、そして御借辛子制を実行したのです。

藩札発行

通久は、宝暦3年(1753)には、困窮する家臣や在町のものを救済する名目で藩札800貫目を発行し、これを貸し付けて八ヵ年賦で返済させることにしました。

しかし、発行された藩札はすぐにその価値が下落して流通せず、わずか3年後には使用されなくなったのです。

Irrigation・Treadmill_in_Japan_(1914、Elstner・Hilton)(A.Davey所蔵、Wikipediaより20211210ダウンロード)の画像。
【踏車(水車)Irrigation・Treadmill_in_Japan_(1914、Elstner・Hilton)(A.Davey所蔵、Wikipediaより20211210ダウンロード) 踏み車(水車)の発明については諸説あります。四ケ所通久が発明したものも、これと似たものだったと思われます。】

踏車の導入

また、踏車という水車を導入して畑を水田にかえることで、米生産高をあげることを試みます。

この踏車は、通久自身が苦心のすえ宝暦3年(1754)に発明したもの、これを近村の農民に試用として貸し出しました。

ところが、農民たちは、見たこともない器械なので操作に苦戦、さらに使うと足腰を痛めるために、これを使用せず旧来からの打桶で水を引くばかりだったのです。

そこで通久は自費で人夫を雇ったり、藩主鑑通に頼んで御小屋の定人夫を借用して踏車の使用方法を村々に伝授したうえ、半強制的にこれを使わせたのです。

ところが、実際に使い慣れると効果は絶大でしたので、しだいに農民たちの間に広まっただけでなく、近国に普及するまでになりました。

柳川を縦横に走る堀割から揚水するために、大掛かりな土木工事は必要ないのも大きな利点だったのです。

ここまで七代藩主鑑通の治世、四ケ所道久によっておこなわれた宝暦の改革についてみてきました。

改革ははたしてうまくゆくのでしょうか。

そこで次回は、宝暦の改革のゆくえをみてみましょう。

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