しかし大義なき戦いと見た柳川藩は、この戦には消極的だったのです。
そこで今回は、この戦のゆくえをみてみましょう。
小倉口の戦い
こうしたなか、慶応2年(1866)6月17日に、高杉晋作率いる奇兵隊や報国隊などの諸隊を主力とする長州軍が、海を渡って豊前国小倉藩領の田野浦を奇襲、ここに小倉口の戦いが幕を開けます。
兵力では圧倒的に優位だった幕府軍ですが、実際に開戦すると、戦場となった小倉藩を除く九州諸藩は傍観して戦闘に加わりませんでした。
このため、兵員は少ないものの洋式銃で武装した長州軍の優勢で推移します。
7月17日には敗退を重ねていた小倉藩兵が、近代的装備を有した熊本藩が露営する赤坂山にまで後退すると、高杉晋作率いる奇兵隊はこの小倉藩兵への攻撃を続けてしまいます。
そこに、熊本藩兵が強力な火力で攻撃を加え、奇兵隊は大打撃を受けて後退せざるをえませんでした。
こうして小倉口の戦いで快進撃を続けてきた長州軍がはじめて敗北したわけですが、翌28日には熊本藩兵が突如撤退してしたのです。
熊本藩撤退
どうして熊本藩は撤退したのでしょうか。
じつは赤坂の戦いが起こった直後、これを知った十時兵馬惟恭がただちに熊本藩陣地に赴き、長州藩と戦わないという約束に背いたことを責めたのです。
熊本藩は、長州側が攻撃を仕掛けてきたので、やむを得ず撃退したものと申し立てましたので、惟恭は柳川藩と熊本藩がともに兵を撤退する合議しました。
じつは、熊本藩としても、もともと長州再征に賛成していたわけではありませんし、小笠原長行総督に不満を抱いていたといいます。
そのうえ、赤坂の戦いでは負傷者まで出すこととなりましたので、柳川藩と共謀して、小笠原総督に一方的に届けただけで戦線を離脱して兵を帰国させることにしたのです。
小倉城炎上
こうして熊本・柳川両藩が撤退すると、これをみた福岡・久留米・唐津・島原などの諸藩も無断で兵を還しました。
さらに、将軍家茂の死去が伝わると、小笠原総督までもが軍艦に乗って小倉から脱出してしまったのです。
こうなると、あとに残された小倉藩は再び単独で長州軍と戦うこととなりました。
小倉藩は家臣を集めて軍議を開き、藩庁を香春に移して小倉を放棄することとし、8月1日に自ら城に火を放ったのです。
こうして第二次長州征伐は、幕府側の敗北によって終わりを告げました。
ここまで長州征伐における柳川藩の行動をみてきました。
表立った行動が少ないので目立ちませんが、つねに長州藩を支援しつつ、早期の事態収拾に勤めていたことがわかります。
こうして長州征伐の失敗により、幕府の威信は失墜して、時代は一気に動き始めました。
そこで次回は、明治維新における柳川藩の行動をみてみましょう。
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