《最寄駅:都営大江戸線 牛込神楽坂駅》
旧越前国勝山藩主の小笠原子爵家は、当主牧四郎の急逝に伴い、妻の富喜実家・旧大野藩主土井子爵家の邸宅があった牛込袋町に移っています。
そこで今回は、かつての牛込区袋町、現在の東京都新宿区袋町にあった小笠原家邸宅跡と、その先々代長育の牛込北町邸跡を訪ねてみましょう。
牛込神楽坂駅前
スタートは都営大江戸線牛込神楽坂駅A2出口です。
ここから地上に出ると、目の前に直角に曲がりながら上る急な坂が目に飛び込んできました。
この坂が袖摺坂で、かつて坂上に南部氏の邸宅があったことから南部坂と呼んでいました。
『新撰東京名所図会』はこの坂が「崖地に雁木を設け、折廻したる急峻な坂」としたうえで、「坂路は狭隘往来の人互いに袖を摺り合す」のに坂名が由来するとしています。
また、『御府内備考』御箪笥町の町方書上には、「袖摺坂又は乞食坂」としてこの坂のことを記しています。
ちなみに、大久保通りを挟んで反対側の箪笥町と横寺町堺の坂も袖摺坂、ことらは坂名碑もあって名所のようです。
しかし、こちらは戦時中に大幅拡張して車が並走できるまでになって風情がないとみられたのか、何の案内もありません。
袖摺坂を上ると、四辻に出てきました。
道を左手にとれば、地蔵坂を経て神楽坂にいたり、直進すると逢坂を下って外濠、右に曲がると愛日小学校の前を通って細工町にいたります。
大田南畝
じつは、この四つ角の北西隅の北町41番地は、狂歌の蜀山人こと戯作者の太田南畝が住んでいた場所です。
太田南畝(1749~1823)は、江戸時代後期を代表する文人です。
本名は覃(ふかし)、通称が直次郎、蜀山人の号と、寝惚(ねぼけ)先生の名でも知られています。
幕府の下級役人・御徒歩役につきながら、狂歌では第一人者となって『万載狂歌集』『德和歌後万載集』を編纂して、当時の狂歌を一大集成する偉業を成し遂げました。
出版者の蔦屋重三郎と組んで洒落本、黄表紙を次々と出版し、天明期には江戸の文芸界の盟主となる活躍ぶりだったのをご存じの方もおられるかもしれません。
松平定信の寛政改革により、いったん文壇から引退するものの、その後復帰し、洒落本、黄表紙、狂歌狂文集、咄本など多くの書物を世に送り出して、江戸第一の文人となっています。
この辺りの話は、「栄光と挫折 蔦屋重三郎③」をご覧ください。
そして南畝は、この通称北御徒町で生まれて60歳となった文化6年(1809)に大久保に転居するまで暮らしたのでした。
尾崎紅葉
また、明治の文豪・尾崎紅葉もこの地に住んでいました。
紅葉の旧居といえば、大久保通り北側の横寺町が史跡に指定されてよく知られるところ。
しかし紅葉は、横寺町に移る直前の、明治23年(1890)から24年(1891)秋までここに住んでいました。
『新撰東京名所図会』によると、紅葉は大田南畝(蜀山人)の旧宅が残っていると聞いて、ここに引っ越してきたそうです。
尾崎紅葉(1868~1903)は、『金色夜叉』で有名な明治時代を代表する小説家の一人です。
1885には丸岡九華、山田美妙らと「碩友社」を結成し、機関誌『我楽多文庫』を創刊します。
その後、写実的手法とみがきのかかった美文によって江戸時代以来の伝統的情緒を表現した作品を次々と発表して、幸田露伴と並び称される文壇の雄となりました。
この地に住んだ一年余りの間に『伽羅枕』を発表、樺島喜久と結婚しています。
江見水蔭
そして紅葉が横寺町に引っ越したあとに越してきたのが江見水蔭。
江見水蔭(1869~1934)は明治時代の小説家です。
岡山市生まれで、本名は忠功(ただかつ)。
友人の巌谷小波の紹介で、紅葉らの「碩友社」に入りましたが、その後、江水社を興して、田山花袋をはじめとする後進育成に勤めました。
代表作は『女房殺し』、『自己中心明治文壇史』が文学史資料として知られています。
ここまで牛込北町41番地に住んだ文人たちをみてきました。
次回は、小笠原子爵家牛込北町邸を目指しましょう。
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