5月17日は、明治8年(1875)に宮城・青森・酒田(現在の山形県)三県および道内で募集した最初の屯田兵198戸965人が札幌郡琴似兵村に入植した日です。
そこで、北海道の開拓史上有名な屯田兵のあゆみと歴史的意義についてみてみましょう。
屯田兵誕生
屯田兵は、近代の北海道に配備された武装移民のことで、明治6年(1873)開拓次官・黒田清隆の建言により創設の方針が決定したものです。
その目的は、ロシアに対する国防と、道内の治安維持ですが、これまでの北海道開拓が不振だったことから、強力な軍事的統制によって開墾事業を推進するとともに、当時深刻化していた失業士族の救済を兼ねていました。
黒田の建白により、明治6年(1873)12月に屯田兵の設置が決定すると、明治7年(1874)10月に屯田兵例則が定められ、これに基づいて明治8年(1875)琴似兵村が作られます。
その後、山鼻、江別、篠津、野幌、新琴似など札幌の周辺や、輪西(室蘭近郊)、和田(根室近郊)、太田(厚岸近郊)、滝川などに士族からなる兵村、いわゆる士族屯田を設置していきました。
いっぽう、軍隊的役割も担ってきた屯田兵は、明治10年(1877)西南戦争が発生すると、屯田兵第一大隊が九州へ出陣しています。
明治15年(1882)には開拓使の廃止によって陸軍省へ移管されましたが、明治19年(1886)北海道庁が設置されると、同庁へ移管されました。
明治20年(1887)ころまでは、札幌周辺や室蘭・根室など防衛的色彩の強い地域に多く設置されてきます。
平民屯田
さらに、明治23年(1890)には再び陸軍省の所管となり、応募資格を士族から平民に拡大した平民屯田が開始されると、内陸を中心に開拓興農に重点を置いた方式へと目的が変化します。
こうして空知、上川、網走など内陸やオホーツク海沿岸に兵村が設置されて、開拓の前線を推し進めました。
その後、明治27年(1894)日清戦争をきっかけに屯田兵を中心とする臨時第7師団が編成され、明治29年(1896)5月には正式に第七師団が発足、さらに明治31年(1898)には北海道全域で徴兵が施行されるようになりました。
これに伴って、明治32年(1899)の上川郡士別兵村と剣淵兵村の設置を最後に屯田兵の募集は中止されます。
その後、明治37年(1904)4月には最終現役兵の解隊・後備役編入が行われて現役の屯田兵は皆無となり、この年の9月には屯田兵条例が廃止されて屯田兵制度は終了しました。
屯田兵村
次に、屯田兵の実態をみてみましょう。
一兵村の基準は200戸1中隊で、村には兵員と家族が暮らす兵屋、将校や下士官が暮らす官舎、中隊本部のほか、耕地や練兵場・射撃場、学校、社寺、道路用地、防風林、墓地、商業予定地である番外地などが設けられました。
このうち、中隊本部が兵村の軍事上・行政上の中心となっています。
屯田兵への保護
屯田兵は、18~35歳(1885年から17~30歳に変更)までの身体強健なものの中から採用されます。
兵員へ支給される土地は時代により差はあるものの、5千坪から1万5千坪が与えられて、これを開墾し終わった者には追給地が与えられています。
また、屯田兵には手厚い保護が与えられました。
移住にあたって、支度料や旅費・日当のほかに、駄賃・運送費が支給されています。
さらに、移住すると兵士としての小銃そその付属品が貸与されたほか、農耕地(給与地)と住宅(屯田兵屋)、鍋・食器・桶・寝具などの家具一式、鍬・鎌・鉈・鉞・砥石などの農工具一式も支給されたうえ、種苗類の現物支給まで行われました。
さらに屯田兵とその家族には、移住後3年間は年齢に応じて扶助米と塩菜料(副食費)まで支給されています。
ただし兵役の義務があり、主に農閑期を中心に軍事訓練はもちろん、開墾や農作業から社会生活に至るまで、軍隊式の厳しい統制と監視があり、一般の開拓者とはまた違った苦労が絶えなかったといいます。
屯田兵のその後
こうして屯田制は、実施された25年間で、入植した屯田兵村37ヶ村、屯田総数7,337戸、開墾総面積2万382町歩、給与地の56%の開墾に成功するという大きな成果を残しました。
しかし、屯田兵制度が終了すると、急速に一般集落へと変貌し、かつての屯田兵村は姿を消したのです。
ちなみに、旧屯田兵を中心とする第七師団は、明治37年(1904)に日露戦争に出陣し、旅順攻略戦や奉天会戦に参加、戦死者と負傷者があわせて1万人を超えるともいわれる甚大な被害を出しました。
ここまでの被害を出したにもかかわらず、十分な補償や部隊へ栄誉がなかったことが、のちに数々の悲劇を生むことになります。
こうした歴史を背景として描いたのが、野田サトル作の漫画『ゴールデンカムイ』(2014~22)。
金塊をめぐる激しい争奪戦を描いたこの作品は大ヒットとなり、第七師団は敵役でしたが、その名を再び全国に轟かせているのです。
屯田兵は北海道の開発に大きく貢献しましたが、現在その足跡はほとんど残っていません。
しかし、その魂は、北海道民の心に深く根付いているのではないでしょうか。
(この文章では、敬称を略させていただきました。また、執筆にあたっては、『新版 北海道の歴史 近代・現代編』関秀志・桑原真人ほか(北海道新聞社、2006)および『明治時代史大辞典』『国史大辞典』『日本史大事典』の関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(5月16日)
明日(5月18日)
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