前回は東京の町を転々と移る新宮男爵家初代・水野忠幹の暮らしぶりをみてきました。
今回は、忠幹の死と、忠幹の子どもたちをみていきましょう。
大塚窪町時代
明治32年(1899)には東京市小石川区大塚窪町7番地、現在の文京区大塚3丁目2番地付近に移りました。(『新撰華族銘鑑』本多精志 編(博文館、1899))
しかし、忠幹は次第に病気がちとなり、明治34年(1901)には窪町の邸宅を水野直にまかせて、新宮水野家の菩提寺である神奈川県鎌倉郡鎌倉町字西御門38番地所在の高松寺で療養にはいりました。
その翌年明治35年(1902)1月には、最初に見たように嫡男忠宜が八甲田山雪中行軍遭難事件で急逝してしまいます。
期待していた長男の死にすっかり気落ちした忠幹は、同年4月30日に、そのまま鎌倉の高松寺で病没してしまいました。
ここであらためて、忠幹の子どもたちのうち成人した、男5人女4人についてみてみましょう。
水野忠宜
忠宜(ただよし)は、明治10年9月1日生まれ、学習院を経て陸軍士官学校に進みました。
士官学校嫁業後は、少尉に任じられて歩兵第三聯隊に配属。
その後、中尉に昇進、第五聯隊に配属となり、明治35年1月26日ころ、八甲田山雪中行軍遭難事件において、25歳で命を落としますが、これはのちほどくわしくみてみましょう。(第43回「八甲田山の真実・水野中尉の死」参照)
水野直
直(なおし)は、明治12年(1879)1月5日に忠幹の五男として生まれました。
明治17年(1884)10月に結城水野家の養嗣子となり、その年の12月に家督を継ぎ子爵を襲爵しました。
明治36年(1903)に東京帝国大学法科大学を卒業し、明治37年(1904)7月には初当選して貴族院議員となります。
大正時代に入ると、貴族院最大の会派である研究会を指導する立場となりました。
さらに、立憲政友会の原敬に接近して、貴族院にとどまらない活躍をみせます。
その後も、親和会と研究会の合同、清浦奎吾内閣の成立などを策動し、「貴族院の策士」と目されていた人物です。
また、加藤高明内閣では陸軍政務次官を務めました。
貴族院を足場に政界で活躍する中、昭和4年(1929)4月30日に50歳で急逝しています。
片桐貞央
貞央(さだなか)は、明治13年(1880)4月28日に忠幹の六男として生まれました。
豊臣秀吉に仕え、方広寺鐘銘事件で有名な片桐且元の弟・貞隆を祖とする旧大和国小泉藩藩主・片桐子爵家の養嗣子となりました。
明治25年(1892)8月16日に襲爵し、東京帝国大学法科大学政治学科に入学します。
明治44年(1911)9月に大学を卒業すると、狩猟調査会委員、農林審議委員、矢作水力役員、大阪タクシー自動車役員などを務めます。
大正3年(1914)2月には貴族院議員に当選し、昭和14年(1939)7月まで4期26年にわたって在任しました。
昭和31年(1956)1月7日に亡くなっています。
七男武(のちの忠武)と八男重吉については、のちにみることにします。
悦、常、富子、千代子
悦は、忠幹の祖父・忠央の弟である忠制の長女で、忠幹が養女とたうえで朝日山藩主水野宗家の水野忠弘に嫁ぎました。
常は、明治16年(1883)2月10日生れで、東京府士族森英に嫁ぎ、大正12年(1923)10月30日に没しています。
富子は、明治21年(1888)3月生れで、旧和歌山藩士で海軍で活躍した男爵川口武定の二男武和に嫁いでいます。
千代子は、明治24年(1891)7月16日生れで、神奈川県士族水野勝昌養子畝勝に嫁ぎ、昭和45年(1970)5月2日に亡くなりました。
ここまで新宮藩初代にして最後の藩主であり、水野男爵家初代となった忠幹と、その子供たちについてみてきました。
次回からは、嫡男の忠宜が巻き込まれた八甲田山雪中行軍遭難事件についてみてみましょう。
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