前回は、北越戦争で膠着した戦線が太夫浜上陸作戦で一気に状況が打破されて、戦争終結に向かうところをみてきました。
そこで今回は、再び会津の若松城攻防戦へ目を転じましょう。
越後官軍迎えの隊
越後から撤退した会津藩兵は、追撃してくる新政府軍を食い止めるべく、只見川をはさんだ舟渡に陣を張ります。
このため、越後から進撃してきた新政府軍は、只見川を渡れず停滞してしまいました。
そこで、若松在陣の諸藩から「越後官軍迎えの隊」を編成することになったのです。
選ばれた兵はおよそ500人で、彦根・柳川・佐賀の藩兵を先鋒としました。
出発
慶応4年(1868)9月5日早朝、出迎えの隊は若松城下を出発、まずは若松城北東6㎞に位置する高久を制圧します。
さらに越後海道を下って坂下、塔寺へと進みました。
塔寺からは越後街道が山に入ることもあって、会津藩は関門を築いていましたが、守備隊が予想だにしなかった新政府軍出現に浮足立ち、少し銃撃戦をしただけで敗走してしまいました。
塔寺を難なく占領した新政府軍は進撃を続けて、ついに舟渡へ到着します。
舟渡の戦い
舟渡の会津藩兵は500人ほどで、陣地を構築して7日にわたり越後から進撃してきた新政府軍を川をはさんで足止めしてきました。
ところが、背後からの攻撃は予期せぬものだったうえに、退路を断たれる恐れがあったことから、会津藩兵は戦わずして逃げ出したのです。
こうしてまたも難なく敵陣を攻略した出迎え隊は、船を対岸に送り、越後口官軍の只見川渡河を助けました。
同盟軍崩壊
こうしてついに越後からの新政府軍が、9月10日に会津城下に到着します。
さらに日光口からの軍も到着して、若松城を完全に包囲、総攻撃を待つだけとなったのです。
こうした状況で、9月4日には米沢藩が降伏、仙台藩が9月15日に降伏します。
その後は米沢藩が説得にまわったことで、9月18日までに福島、上ノ山、棚倉、天童などの諸藩が相次いで降伏しました。
会津藩降伏
そんな中、9月14日には新政府軍のおよそ50門もの大砲が若松城を砲撃し、総攻撃が開始されます。
新政府軍の猛攻の前に、会津藩は9月22日に降伏。
参謀の板垣退助は、藩主親子を罪人のようには処遇せず、丁重に扱ったといいます。
さらに、翌23日には庄内藩、25日に盛岡藩が降伏して東北での戦乱は収束しました。
箱館戦争
その後、北海道へのがれた榎本武揚ひきいる旧幕府軍と新政府軍で、明治2年(1869)に箱館戦争が起こります。
これに柳川藩が参戦したとする「柳川藩届書」(「軍務官箱館征討合記 第六 追録」『太政官日誌 明治2年 第75 六月三十日』所収)がありますが、これは藩名を久留米藩と誤記したもの。
いっぽうで柳川藩は、藩船千別丸による箱館方面の海上輸送等の功により明治2年(1869)に高900石を三か年間与えられています。(『平成新修旧華族家系大成』)
ちなみに、榎本武揚率いる旧幕府軍は明治2年(1869)5月18日に五稜郭を明け渡して降伏したのは皆さんご存じの通りです。
恩賞
明治2年(1869)6月、新政府は、薩摩藩の島津久光父子と長州藩の毛利敬親父子の10万石を筆頭に、鳥羽伏見の戦い以来の戦功のあった個人、諸隊、軍艦に賞典禄を与えました。
そこで、柳川藩立花鑑寛は5,000石を下賜されています。
ちなみに、この賞典禄も家禄とともに秩禄処分の対象となって、明治9年(1876)に金禄公債の交付と引き換えで廃止され、賞典禄の支給は7年間のみだったのです。
こうしてようやく終結した戊辰戦争ですが、そのさなかの1868年10月23日、旧暦慶応4年9月8日に年号は明治と改元されて、文字通り新しい時代がはじまっていました。
そこで次回は、新しい時代をむかえた柳川藩と藩主立花鑑寛についてみてみましょう。
《鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争については、文中に挙げた『太政官日誌』とともに、『戊辰戦争』『戊辰戦争全史』をもとに執筆しました。》
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