前回、水野氏のはじまりから新宮水野家誕生までをみてきました。
そこで今回は、新宮水野家の歴史をみていきたいと思います。
新宮水野家歴代当主
新宮水野家の歴代当主は以下のように続いています。
初代 重仲(重央)(しげなか・元亀元年(1570)~元和7年(1621))
二代 重良(しげよし・慶長元年(1596)~寛文8年(1668))
三代 重上(しげたか・寛永11年(1634)~宝永4年(1707))
四代 重期(しげとき・ ?~元文5年(1740))
五代 忠昭(ただあき・ ?~寛延2年(1749))
六代 忠興(ただおき・ ?~宝暦13年(1763))
七代 忠竒(ただより・寛政2年(1790)~文政5年(1822))
八代 忠啓(ただあき・寛政7年(1795)~嘉永元年(1848))
九代 忠央(ただなか・文化11年(1814)~慶応元年(1863))
十代 忠幹(ただとも・天保6年(1835)~明治35年(1902))
〔水野男爵家〕
初代 忠幹(ただとも・天保6年(1835)~明治35年(1902)(重複))
二代 重吉(じゅうきち・明治31年(1898)~昭和3年(1928))
三代 忠武(ただたけ・明治19年(1886)~昭和20年(1945))
誠 (まこと・明治43年(1910)~ )
江戸時代を通じて、新宮水野家の歴代は特異な才能を持ったものが多かったといわれています。
以下では、特徴的な二代重良、五代忠昭についてみてみましょう。
水野重良
二代重良は、和歌山藩家老として初代藩主徳川頼宣に仕えました。
父・水野重仲、母は安部摂津守信盛の養女で、じつは水野四郎左衛門清忠の娘の間に生まれました。
幼名は藤次郎、または左近で、はじめ重種、重景、重忠、忠吉とも称し、隠居後は真休と号しています。
慶長12年(1607)二代将軍秀忠の近侍となり、慶長20年(1615)1月27日に従五位下淡路守に叙任されました。
大坂の陣に従軍して戦功をあげ、のちに近江国の内に2,000石を与えられています。
元和9年(1623)4月には家光に付けられて、書院番頭となりました。
重良の家督相続
じつはこの重良は、剛直な性格で知られる武将でした。
彼の性格を物語る逸話が家督を相続ときのものです。
元和7年(1621)11月、父重仲の病死後も陪臣となるのを嫌って家督相続せず、弟の忠重に家督を譲ろうとしたといいます。
この結果、新宮水野家がおよそ1年半にわたって無主の状態になるという異常事態になったのです。
そこでその年の6月、秀忠と家光が上洛する際、奏者番を命じられたときのこと。
いつまでも家督相続しない重良を、山城国竹田において秀忠・家光から父重仲の家督を継ぐよう特命したのです。
さらにこの時、家光から和州包友の小脇差と、豊臣秀長の伏見旧邸を拝領し、家督相続をのむよりほかない状況となったのです。
ここまできて、ようやく重良は家督を相続したのでした。
また、慶長6年(1601)に父重仲が対馬守となったとき、藤原姓を称していましたが、重良は正保元年(1644)に再び源氏姓に改めたのでした。
万治元年(1658)9月25日をもって隠居し、寛文2年(1662)9月には剃髪して真休と改名しています。
寛文8年(1668)10月28日、江戸邸宅において73歳で没しました。
五代 忠昭
忠昭もまた、剛直で知られました。
忠昭は、初代重仲の次男・定勝の長男・重矩の三男として、奥山玄建の養女を母に生まれました。
幼名は万之助で、通称は左膳、四代藩主重期の養嗣子となって、正徳4年(1714)7月18日に養父の隠居により家督を継いでいます。
この年の7月28日に七代将軍家継に初御目見を果たしました。
忠昭は無類の強力として名高く、大碇を片手で軽々と持ち上げて、扇子でも持ったかのように、沿岸の風物を指し示して説明したといいます。
また、鶏卵を一度に70個も平らげるという無類の大食家としても名をはせました。
寛永2年(1749)10月25日に50歳で没しています。
ここまで水野家の歴代当主についてみてきました。
南国らしいおおらかさと豪快さを兼ね備えた人物がおおかったようです。
じつは、この背景には新宮のもつ大きな経済力があったからこそ。
そこで次回は、新宮水野家がどのような支配体制をつくったのかについてみてみましょう。
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