前回みたように、大政奉還がなった後も戦乱は続き、戊辰戦争がはじまりました。
柳川藩も平潟に上陸して奥羽列藩同盟軍と戦うことになったのです。
そこで今回は、柳川藩が参加した激戦、新田坂の戦いをみてみましょう。
軍議
前回みた関田の戦い(八田山攻防戦)以降はほとんど戦闘もなく、新政府軍は平潟を守備して後続を待っていました。
そこへ慶応4年(1866)6月25日夕刻に棚倉城落城の一報が入ると、にわかに事態は動き出し、平潟軍は27日に軍議を開きます。
棚倉城は磐城平と白河を結ぶ要衝の地で、これを同盟軍が平から攻撃する恐れがあることから、急いで行動するよう命が下されたのです。
軍議では、兵を①海岸道から泉を攻略して平城へ、②本街道を新田・湯長谷を攻略して平城へ、③平潟守備の三隊に分けることとし、28日に作戦開始することと決しました。
柳川藩兵は②③を担当することになり、兵の一部を平潟に残して笠間藩とともに守備、主力は佐土原とともに山手から湯長谷を目指します。
新田坂の戦い
ところが、同盟軍は途中の新田山(新田坂)に台場を構築して守りを固めていたのです。
同盟軍は新田坂上の台場から発砲して前進を阻みます。
そこで、佐土原藩は大砲を正面すえて砲撃するなかを、立花参太夫率いる柳川藩一小隊が進撃して攻撃を開始しました。
同盟軍は天険を利用していたので、曽我司隊を右側の山手に、佐土原藩銃隊と柳川藩石川十郎右衛門隊が左側の山手に進んで、さらに蜂谷一学隊が中央からと、三方向から攻撃を仕掛けたのです。
双方一歩も引かぬ激戦となり、戦闘は膠着状態におちいります。
援軍到着
いっぽうで、泉藩は藩主本多忠紀が出奔して泉館に不在、守備兵も少なく新政府軍はやすやすと占領に成功していました。
そこへ新田坂での激戦の報が入りましたので、守備兵を残して兵を二手に分け、新田坂と新田宿へ兵を向かわせたのです。
新田坂では激しい戦闘が続いていましたが、予期せぬ方向から薩摩軍が援軍に来たことで同盟軍は混乱し、陣地を捨てて退却を始めます。
新政府軍は新田まで追撃したところで休息、ようやく食事をとりました。
そこで夕刻となり、援軍は泉館に引き揚げ、柳川・佐土原藩兵は新田宿で宿陣します。
この戦いでは、純義隊中村芳五郎を生け捕り、柳川藩は負傷者は深手2名、薄手2名でした。(「八月廿四日 柳川藩届書冩四通」『太政官日誌 慶応4年戊辰秋8月 第66』)
平潟砲撃
平潟にいた新政府軍は、同盟軍の勢力範囲のただなかに敵前上陸しましたので、なによりも平潟を失って補給路が断絶することを恐れていました。
その恐れがついに現実のものとなります。
新田坂で戦闘が行われていた28日の正午頃、平潟沖に同盟軍の鑑船が出現、平潟へ向けて発砲してきました。
直ちに守備隊は、薩摩藩、大村藩、佐土原藩に通報するとともに、兵を伏して上陸に備えます。
しかし、激しい砲撃を加えるのみで、同盟軍艦船は、そのまま磐城方向に退却していきました。
じつはこれ、仙台藩の長崎丸と太江丸で、仙台藩兵を中之作港まで輸送したあと、そのまま平潟に向かい砲撃したもので、上陸戦の兵力は乗り組んでいませんでした。
ところが翌29日早朝5時30分頃、今度は同盟軍艦船が一艘、浜近くまで来て発砲したうえ、小舟を出してきたのです。
平潟守備隊にすわ上陸かと緊張が走り、すぐさま岸から小銃を撃ちかけたところ、小舟はすぐに退却しました。
その後も、本船から大砲で激しく砲撃してきましたものの、しばらくすると退却しています。
平潟砲撃のねらい
同盟軍は、どうして平潟を砲撃するにとどめたのでしょうか。
この二日にわたる平潟砲撃は、新政府軍をけん制することで目前に迫った平城攻撃の要員を減らす意図があったのでしょう。
しかし越後から白川口、さらには浜街道と戦線が拡大したうえに、平城守備にも兵が必要だった同盟軍には、上陸作戦を行うほどの余裕はなかったのです。
一方の新政府軍は同盟軍の攻撃に狼狽し、平潟防衛のために柳川藩の主力を引き戻しました。(「八月廿四日 柳川藩届書冩四通」『太政官日誌 慶応4年戊辰秋8月 第66』)
こうして平潟に上陸した新政府軍は、本格的攻勢に討って出ることになります。
そして戦場は、湯長谷城(陣屋)と戦略的要衝の平城へと移っていったのです。
そこで次回は、湯長谷城と平城攻防戦をみてみましょう。
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