前回は、廃藩置県によって勝山藩が消滅するまでをみてきました。
今回は、新政府から上京を命じられた長守のその後をみてみましょう。
勝山藩上屋敷の移転
勝山藩がようやく上屋敷を復興させた直後の慶応4年(1868)9月5日、新政府は藩邸の整理方針を発表し、その整理に着手しました。
『東京市史稿 市街編49』によると、勝山藩の江戸上屋敷にかかわる通達が記されています。
その内容は、信濃国小諸藩牧野家の久松町上屋敷を「御用ニ付家作共差上可候」つまり、屋敷の建物ごと勝山藩上屋敷に下賜する。
そのかわりに「勝山藩馬場先屋敷」を新政府に上地することとなっています。
久松町邸
こうして上京を命じられた長守は、下賜された日本橋区久松町31番地、現在の中央区久松町8・9番地の新しい上屋敷に本拠を構えます。
本来ならば、そのまま藩邸を与えられることが多いのですが、なぜこれまで縁もゆかりもない久松町に屋敷を与えられたのでしょうか。
じつは、慶応4年(1868)に「大名小路」とよばれるほど、丸の内に多くあった上屋敷は、政府機関を置くためにすべて上地となりました。
その代わりの屋敷を新政府が下賜したのですが、勝山藩の場合はかつての信濃国小諸藩牧野家上屋敷だったのです。
おそらく、久松町屋敷は新政府が選んだもので、小笠原家が住むことになったのは偶然なのですが、このことが後々大きな意味を持つことになるのです。
邸宅焼失
じつは、久松町の邸宅が焼けてしまったのです。
『新修日本橋区史』によると、明治13年(1880)2月4日午後11時30分、日本橋区橘町1丁目5番地から出火、折からの強風にあおられて、火は瞬く間に日本橋区北部一帯に広がりました。
ようやく火が鎮まったのは翌日の午前9時のこと。
延焼範囲は火元の橘町はじめ日本橋区の9ヶ町、焼失戸数1,776戸、面積15,365坪の大惨事となったのです。
このとき、久松町域は全焼し、小笠原子爵家久松町邸と隣接する久松小学校、警視庁第一方面第五分署、道向かいの久松座(明治座の前身)も焼失しています。
小笠原家浜町邸についてくわしくは、第46・47回の「小笠原家久松町邸跡を歩く」前・後編をご覧ください。
長守は、明治6年(1873)に長守は隠居して家督を嫡男長育に譲りましたが、その後も同居を続け、火事のあとは本所区緑町1丁目45番地、現在の墨田区緑1丁目23番地付近に引っ越しています。
長守死す
火事の後、小笠原家の当主・長育に従って本所区緑町1丁目に暫く住みますが、このなかで長育は子爵に叙せられました。
明治20年(1887)ころまでに本所区番場町29番地、現在の墨田区東駒形1丁目17番地付近に隠居所を移して長育と別居しています。
家督を長育に譲ってからは、風流三昧の生活に入って、世間のことを顧みず、悠々自適の暮らしを楽しんでいたようです。(『林毛川』)
明治24年(1891)7月東京で病没、享年五十八。浅草海禅寺に葬られています。
長守の意外な人柄
幕末の激動の中を戦い抜いた上に、そんな中でも藩性格を成し遂げた長守は、武断派のイメージが強いのではないでしょうか。
しかし、じつは闊達な性格で風月を楽しみ、詩歌書画に親しむ一面を持っていました。
なかでも、竹を描くのが得意だったようで、作品が多く残されています。
また、旧勝山城には、長守の書「勝山城址之碑」を刻んだ碑が建てられているそうです。
今回は、廃藩置県に伴って上京した小笠原長守についてみてきました。
はたしてこの大火をきっかけに、小笠原家も市橋子爵家のように没落してしまうのでしょうか。
次回は長育の跡を継いで小笠原子爵家の初代となった長育についてみてみましょう。
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