よく見かけていたものがいつの間にかなくなっている、なんてことよくありますよね。
そば屋の出前だったり、瓦屋根だったり、鯉のぼりとかゴム遊びやケンケンパなどして遊ぶ子供の姿など、いつの間にかすっかり見なくなりました。
なくなったからどう、という物ではないのですが、ふと気づいた時、何とも言えないさみしさを覚えずにはおれません。
今回はそんなお話しです。
明治以降、深川の地は一大工業地帯でした。
浅野セメント、東京人造肥料会社、旭焼陶器、汽車製造株式会社など、渋沢栄一が居を構えていたこともあって、深川で多くの企業が創業して、巨大な工場を構ええていたのです。
一例として東京瓦斯の「猿江製造所」(『創立廿五年記念写真帖』東京瓦斯 1910年 国立国会図書館デジタルコレクション)を見てみましょう。
明治末に造られたこの工場の手前を流れるのが大横川で、多くの和船が活躍しているのがわかります。
このように、深川の工業地帯を支えたのは、豊富な地下水と水運でした。
縦横に水路が走る深川の地ですが、同時に船を通しつつ陸上通行も確保するために無数の橋がつくられていたのです。
こうした木場付近の情景を描いた永井荷風の文章からは、少し場所は離れるものの深川と橋の関係をうまくとらえていますので見てみましょう。
「大横川の岸に出る。仙台堀と大横川とのニ流が交叉するあたりには、更にこれ等の運河から水を引入れた貯材池がそこにひろがっていて、セメントづくりの新しい橋は大小幾筋となく錯雑している。」 【永井荷風『深川の散歩』】
私が初めて深川を訪れたゼロ年代末は、ちらほらと「セメントづくり」の作業用の人道橋が残っていたように思います。
しかし気が付いた時にはわずか二三本になり、現在はこの一本だけになってしまいました。
この橋は大島川支川から分岐した中之堀川に架かっています。
住所でいうと、東京都江東区佐賀2丁目8番地と同9番地を渡す人道橋、しかし私はこの橋の名前をいくら調べてもわかりません。
橋長は20mほど、コンクリート桁のトラス橋で、幅はわずか1mほど、人一人がやっと通れるくらいです。
これ以上ない、というくらいシンプルな構造の橋は、いかにも作業用といった面持ちです。
現在は使われていないようで、入り口の扉は閉められ、上り口には木が生い茂っています。
橋自体もかなり傷みがひどく、使用できる状態にはないようです。
この橋が架かる中之堀川も、大島川支川との分岐部分にある中の堀水門と、隅田川につながっていたが北側部分が埋め立てられて池のようになってしまっています。
この橋の部分もいずれ埋め立てられて、橋も取り壊される運命にあるのかもしれません。
風前の灯となった名も知らない橋ですが、その侘びたたずまいはかつての深川の姿を彷彿させてくれます。
次回は、この人道橋が架かる中之堀川の歴史から探ってみたいと思います。
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