前回、江戸時代の元高砂橋を見てきました。今回はその続きです。
明治時代になっても旧高砂橋に大きな変化はありません。「明治東京全図」(明治4年)をみても前回見た嘉永地図から大きな変化はみられません。
その後、東北本線秋葉原貨物駅(現在のJR秋葉原駅)開業に合わせて、明治16年(1883)に浜町川が神田川まで延伸されても状況は変わらなかったようです。
明治25年7月、工事費1,654.94円で高砂町から久松町に渡る橋長6間、幅4間の木橋が架設されています。(『日本橋区史 第1冊』)
昔ながらの木橋だった旧高砂橋に大きな試練が訪れます。
大正12年(1923)東京の街に関東大震災が襲来したのです。
下町の多くが劫火にのまれて壊滅的被害を受け、この橋周辺も再び一面が焼け野原となる甚大な被害を受けました。
「関東大震災の被害、浜町河岸」(『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』)を見ると、浜町河岸から両国橋まで何もない状態になっています。
しかし、復興事業のなかでこの橋の名は出てきません。
あるいは奇跡的に焼け残ったのかもしれません。
震災からの復興事業の中で、この辺りでも大規模な区画整理が行われた結果、旧高砂橋の位置に橋は架設されず、一本上流側に造られた街路に架かる橋に名前が移されたのは先に見たところです。
そして隣接した久松小学校は、復興事業で建て替えられています。
しかし、旧高砂橋が廃止されたわけではなく、名前を元高砂橋と変えて存続したのでした。
先ほど見た昭和8年の地図に元高砂橋の名が記されているのが最も古い例です。
震災復興で生まれ変わった町と橋の様子は、昭和19年撮影の空中写真で見ることができます。
この時の橋の架設時期は分かりませんが、昭和初期に江戸時代から変わらぬ橋が残されていたというのですから驚きです。
そこでこの橋の想像図を描いてみました。
前回、地図をみた時に久松小学校の位置が移動したようにみえたのを覚えておられるでしょうか?
この現象も、震災復興の区画整理で大通りができたことと、小学校の敷地が広がったことで変わったように見えたのですね。
しかしその後、太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月、米軍による東京大空襲によって東京の下町一帯は再び壊滅的被害を受けてしまいます。
この橋周辺も例外ではなく、一面の焼け野原となりました。
「東京大空襲で焦土と化した東京」(『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』)の画面中央右が久松小学校ですが、その附近の浜町川には橋がありません。
昭和22年撮影の空中写真を見ると、この時に元高砂橋も無くなっているのが分かります。
よく見ると、写真には両岸に石積の橋台がむき出しになった状況が確認できると思います。
さらに、この空中写真からは、橋が再建されずに橋がない状態でしばらくそのままにしていたこともわかります。
こうして江戸の伝統を受け継いだ元高砂橋が、東京大空襲で焼失したことが分かりました。
次回はこの橋のその後の運命をたどっていきたいと思います。
コメントを残す