前回まで見てきたように、国産第一号の鉄橋の弾正橋は菊の御紋を背負い、華々しくデビューしました。
この橋の設計図をはじめとする関連書類は保存されて橋つくりの教科書として使われていきました(橋梁図書刊行会『東京市ノ橋梁設計及工事関係書類 第1巻第1編 弾正橋』)。
しかし、この弾正橋にも時代とともに変化の波が押し寄せてきます。
今回は、その後の弾正橋の数奇な運命を見ていきましょう。
弾正橋が造られて30年以上が経った大正2年(1913)に市区改正事業によって街路網の整備が行われルに伴い、新しく弾正橋が上流(北)側に架設されました。
もともとの弾正橋は、「元弾正橋」と改称されて存続されることとなります。
大正12年(1923)の関東大震災では、周辺地域が甚大な被害を受ける中、奇跡的にこの橋はほとんど損傷しませんでした。
しかし、その後の震災復興事業にともなう区画整理で廃橋となってしまいます。
廃橋となった元弾正橋は撤去され廃棄される運命となってしまいます。
この危機に、わが国の土木史上貴重な橋が失われることを惜しんだ復興局の成瀬勝武らの尽力して、ようやく移設が決まりました。
それは東京市では、この橋の重要性に鑑みて昭和4年5月に現在地に移設して人道橋として保存することにしたのです。
ただし、橋は架けられる掘割の幅に合わせて1節2辺端、間を2メートルに縮小しています。
その後、昭和20年(1945)の東京大急襲による業火にも耐えて、またもや奇跡的にこの橋は大きな被害を受けず残りました。
そしてこの橋は富岡八幡宮への裏道として地元の人たちの暮らしを支えていったのです。
ところが戦後、高度経済成長の中で生活様式が変化したことや、産業構造が変化したことで、油堀川支川とよばれたこの堀割も埋め立てが決まります。
川に排水が流れ込んで水質が悪化したり、悪臭など衛生的環境的問題の原因とみなされたのでしょう。
このことで、再び八幡橋(旧弾正橋)に廃橋の危機が迫ります。
この橋の歴史的価値が地元でも忘れられた状況の中、江東区史編纂にともなtって江東区史編さん室の人たちによる調査が行われたことで、この橋の重要性が再発見されます。
この僥倖を、毎日新聞は「何のいわれもなさそうなこの橋が、実は東京に残っている鉄橋のうちで1番古いものであることが(中略)江東区史編さん室の人たちの調査で明らかにされた」【昭和32年4月25日付都民版】と報じています。
この時、橋下にまだ水面が残っていました。
この発見のきっかけは橋台のコンクリートにはめ込まれていた銘板です。
現在、この銘板は、写真のように橋の下に米国土木学栄誉賞のプレートと共に保存展示されています。
この銘板は、東京市が昭和4年の移設の当たって取り付けたもの。
銘文には、「本橋の鉄構は東京市最初の鉄橋たりし弾正橋の古構を再用するものにして明治11年東京府董工の下に工部省赤羽製作所に於て鋳造せられしものなり(後略)」と、この橋の重要性がはっきりと記されています。
その後昭和52年6月には国の重要文化財に指定され、近年「土木史」が注目されるのに伴って、この橋は一躍 有名な存在となったのです。
また現在では、中央区の弾正橋(写真)のたもとに八幡橋(旧弾正橋)を模した精巧なモニュメントが作られて、橋とそれに関わった人たちの業績をたたえています。
ようやくその価値が認められた八幡橋(旧弾正橋)ですが、この橋が生き残った理由はほかにもあるようです。
最終回の次回は、この橋が持つもう一つの魅力を探ってみたいと思います。
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