前回見たように、南高橋はかつての両国橋を転用した橋です。
そこで今回は、両国橋についてみていきましょう。
両国橋は寛文元年(1661)に幕府によって架橋された由緒ある橋です。
隅田川に架けられた二番目の橋で、幕府が最も重視した橋でもありました。
両国橋は川開きや花火で江戸っ子たちの人気を集め、多くの浮世絵に描かれていますので、ご存じの方も多いはず。
そして、明治8年にはオランダ人技師リンド―が設計を指導して西洋式の方杖型木橋に架け替えられます。
この木橋が老朽化して、明治30年夏の川開きの際に群衆の重みに耐えかねて橋欄が一部崩壊、死傷者数十名を出す大事故が起こってしまいました。
この事故の影響で両国橋を木橋から鉄橋に架け替える計画が持ち上がったのは当然の成り行きだったのです。
そして、事故の7年後、明治37年(1904)には鋼鉄製トラス橋に架け替えられました。
橋梁設計は原龍太が主導し、トラス部分は安藤広之、橋脚と橋台は金井彦三郎が設計です。
大事故を受けての架け替えでしたので、橋の強度には特に注意が払われたのは言うまでもありません。
また、東京市の原と金井のコンビは、明治31年架橋の浅草橋、明治34年架橋の江戸橋などを設計した名コンビです。
ところでこの名コンビ、美しい芸術作品を思わせる「装飾橋」というタイプの橋を得意としていました。
そのためか、この両国橋には植物紋様の高欄くらいしか目立った装飾はありませんが、全体的に軽やかな美しさが感じられます。
このとき完成した両国橋は、橋長164.5m、幅24.5mの巨大な鋼トラス橋で、明治42年(1909)に竣工した両国の国技館とともに東京を代表する景観として人気を集め、観光名所になっていきます。
そんな中、東京の町は大正12年(1923)関東大震災により壊滅的被害を受け、両国橋の両岸は焼け野原となりました。
しかし橋は床の木材が焼失したものの落橋をまぬがれて、奇跡的に構造材が大きな損傷なく残ります。
震災復興に当たっては両国橋の架け替えが決まりましたが、新しく架ける橋や落橋した橋が優先されたのは当然の事、ですので両国橋は橋を補習してしばらく使用が継続されたのです。
この頃の両国橋を芥川龍之介は「両国の鉄橋は震災前と変わらないといって差支えない。ただ鉄の欄干の一部がみすぼらしい木造に変わっていた。」(『本所両国』)と記しています。
震災直後に描かれた関露香「両国橋」(『震災五十八景』 大正13年 )にも、高欄の一部が焼け落ちたものの、原形を保った両国橋が描かれています。
その後、両国橋の架け替え工事が始まるのは昭和5年(1930)2月のことで、復興事業で隅田川に架けられた9橋のなかで最後になりました。
こうしたいきさつから、補修された明治37年架設の両国橋は、昭和4年頃まで使用されていたのです。
そして明治37年架設の両国橋は、解体後はスクラップとなる予定でした。
しかし、ここでも一つの幸運が訪れます。
前に見てきたように、この橋は南高橋に生まれ変わることになったのです。
再利用の背景には橋の部材が再利用できる状態で残っていたこと、解体のタイミングがちょうど南高橋架橋が検討される時期に近かったこと、という二つの偶然が重なっての出来事でした。
詳しい経緯は不明ですが、南高橋架橋に関わった人たち、おそらくは復興局のメンバーが、旧両国橋を見知っていたのでしょう。
もちろん、震災での被害が小さく、補修された状態でしばらく使用されたことが、これらの偶然を呼びこんだのは言うまでもありません。
こうして人々の人気を集めた明治37年架設の両国橋は、スケールを縮めながらも南高橋として生まれ変わることができました。
ただし、華やかな飾りを失った、トラスのみの殺風景な橋として、ですが・・・。
ようやく誕生した南高橋、しかし、地域住民に愛される橋になるまでには、さらにいくつかの偶然が必要となるのでした。
次回では、今の状況を生むにいたる数々の偶然について見ていきたいと思います。
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