前回まで見てきたように、旧両国橋を転用して震災復興事業の最後になってようやく、南高橋が架けられました。
では、そもそも南高橋が架けられたのは どんな場所だったのでしょうか?
南高橋は霊巌島と鉄砲洲を結ぶ橋です。
江戸時代、霊巌島は江戸有数の港湾で、上方から酒を運んだ樽廻船の荷揚げ港で問屋や蔵が建ち並ぶ地域でした。
一方の鉄砲洲にも港湾施設がありましたが、特徴的なのは船乗りが多く住んだことです。
この町の鎮守、鉄砲洲稲荷神社(湊神社)は船乗りの神として信仰を集めていました。
歌川広重『江戸名所百景 鉄炮洲稲荷橋湊神社』は、現在の南高橋がかかる少し上流の霊巌島側から鉄砲洲稲荷を見た光景で、帆柱が並ぶ光景からは、港の活気と賑わいを感じさせてくれます。
そして歌川国輝(二代)が描いたように、明治元~5年には遊郭ができるほどの繁栄を見せていました。
ただしこの花街は、東京の中心部に近すぎるとして明治5年に廃止されています。
このように港として栄えたこの街も、関東大震災で壊滅的被害を受けます。
ちょうどこのころ、船の大型化や物流の変化などが影響して、復興した町は、同じ港でも一大倉庫街へと変貌を遂げました。
その頃の様子を北原白秋は、マストが林立し、煙突が乱雑に並び「じんじん、ぽっぽっ、ぽっぽっぽ」と騒がしく、倉庫が並ぶ近代的風景を讃えています。さらに「日の暮時は黒山の人だ。」と昼間の賑わいを描きました(北原白秋『大川風景』)。
しかし この光景は夜になると一変します。
永井荷風は、「稲荷橋をわたると、筋違いに電車の通る南高橋がかかっている。電車通りの燈火を避けて、河岸づたいに歩を運ぶと、この辺は倉庫と運送問屋の外殆ど他の商店はないので、日が暮れると昼中の騒がしさとは打って変わって人通りもなく貨物自動車も通らない。」(『街中の月』)とか「歌舞伎座前より乗り合い自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀なる物揚波止場に至り石に腰掛けて明月を観る。石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上には豆州大島行の汽船二三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らう男女二三人あり。岸につなぎたる荷船にはしきりに浪花節をかたる船頭の声す。」(『断腸亭日乗(昭和9年7月)』)と南高橋周辺の夜の情景を記しています。
いかにも寂しく物悲しい様子が伝わってきますね。
このように、かつて花街としてにぎわった南高橋周辺は、人のあまり住まない産業地区となり、橋も産業用といった風情になったのです。
人々の喝采を集めたスターの両国橋から産業用の地味極まる橋へ、一気に坂道を転がり落ちるような状況のなかで、南高橋は影の薄い 存在を忘れられたかのような、いわばどん底の状態へとはまり込んだのでした。
すっかり忘れられた存在となった南高橋。
しかし、さらなる逆風が襲ってきます。
東京大空襲では近在の鉄砲洲稲荷が焼失するなどの被害を受けたにもかかわらず、この橋は大きな被害を受けませんでした。
戦後は周囲が再び倉庫街となり、バブル期まで住友や三菱の大倉庫、帝国冷蔵の倉庫などが並ぶ、相変わらずの風景に戻り、相変わらずの地味な産業用の橋として黙々と役目を果たしたのです。
ここにさらに追い打ちをかけるように、昭和43年(1968)には、すぐ隣に長さ30.0m、高さ8.0mの亀島川水門が造られることで、南高橋は隅田川から姿が全く見えない存在へと追い込まれてしまいます。
ついには南高橋が明治の橋であるという事実は、専門家の間でも忘れられるまでになってしまったのです。
この過酷な状況で、南高橋に大きな危機が訪れようとしていました。
次回では、ここから一気に復活を遂げる、最後の偶然について見てみましょう。
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