前回見たように、南高橋はすっかり忘れられた橋になってしまいました。
この状況を変えたのが、伊東孝を中心とする「東京の橋研究会」(以下では「橋の会」と呼びます)の調査です。
これまでほとんど顧みられることがなかった「橋」とうい建造物を、我が国ではじめて土木史の中の文化財として認定し評価するという画期的な活動を行ったのでした。
震災復興期の東京の橋を研究していた「橋の会」は、南高橋②でみた震災復興の基本原則、隅田川にそそぐ川の河口の橋は美観を重視して、右岸はアーチ橋、左岸はトラス橋とするルールを逸脱する南高橋の存在に困惑します。
そしてついに、メンバーは調査を重ねて南高橋が明治37年架橋の両国橋を転用した橋であることを突き止めたのです。
この結果、都内で2番目(車が通れる橋としては最古)、全国で6番目に古い橋であることが明らかとなったのです。
この調査によって、南高橋は土木文化財としての新しい価値を見出されたのでした。
時あたかもバブルの直前、ウォーターフロントの再開発によって倉庫街が雨後の筍のように次々とマンションへと建て代わる、そんな時代を目前に控えたタイミングでの出来事でした。
南高橋がその価値を忘れられたままこの時代を迎えたとしたら、おそらく現代的なデザインの橋に架け替えられたのではないか、と私は想像するところ。
さらに素晴らしいことに、中央区も土木文化財としての重要性を認めて動きます。
この橋を地域のシンボルとすべく、平成12年には橋に尖塔や橋名板を設置して橋を明治の姿に復元するとともに、橋詰に広場を整備するなど橋周辺の環境整備に努めました。
伊東孝たちの研究が町の再開発に間に合ったこと、また行政がその価値を認めたことは、偶然とはいえこれ以上ないくらい最高のタイミングだったと言っても過言ではありません。
こうして南高橋は、地域のランドマークとして、人々に愛される存在へとなったのでした。
私にはこの古い橋が、この上ない幸福に包まれているように見えるのです。
翻ってみてみると、南高橋が今の幸福に至るまでには数々の偶然がありました。
旧両国橋が関東大震災で大きな損傷を受けず、両国橋の架け替えが後回しにされて、亀島川河口に急遽 橋を架けることになり、その橋と旧両国橋の中央径間の大きさがピッタリあって、両国橋和解体した部材がいい感じで残っていて、東京大空襲で破損せず、再開発でなくなるかもしれなくなる前に自分の価値を見出してくれる人たちに出会って、行政が無視して壊さずに整備してくれた・・・。
ここまで偶然が重なると、橋に何らかの神というか精霊みたいなのが取り付いているのでは、などと勘ぐってしまいます。
その神か精霊はというと、旧両国橋か、南高橋か、どっちについているのでしょうか?
それはさておき、偶然の重なりは この橋が持つものすごい強運の賜物としても、この偶然の連鎖を呼び込んだものに私は注目したいのです。
もし旧両国橋が優れた建造物でなければ、偶然の連鎖の途中で朽ち果ててしまったのではないか、と思うのです。
ここで改めて、南高橋④でみた悲惨な事故を受けて明治37年(1904)に造られた鋼鉄製トラス橋の両国橋に注目したいのです。
この鋼橋は関東大震災で床の木材が焼ける被害があったものの、橋の構造自体はほぼ無傷でした。
実は、この両国橋、しばらく仮橋として使えたことからも分かるように、地震そのものにはびくともしていません。
その証拠に、現在の両国橋の橋台と橋脚は、旧両国橋のものをそのまま利用しているのです!
つまり、旧両国橋の橋台と橋脚も、明治37年から現在まで100年以上使用に耐えている、しかもこれから先も使い続けられる、ということです。
かつての浅草橋や江戸橋といった華麗な橋を得意とした原龍太と金井彦三郎のペアが、旧両国橋でも素晴らしい仕事をしているのが見て取れるでしょう。
この妥協のない仕事が、偶然の連鎖を呼び込み、現在の南高橋に繋がっているのです。
自らの仕事に、謙虚に、そして忠実に打ち込むことが未来につながるのだ、そんなメッセージを南高橋は私に語り掛けてくれているように思えてなりません。
この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました(順不同敬称略)。また、本文中では敬称を略しました。
石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』1977新人物往来社、
伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』1986 鹿島出版会、紅林章央『東京の橋 100選+100』2018都政新報社、
東京都建設局道路管理部道路橋梁課編『東京の橋と景観(改訂版)』1987東京都情報連絡室情報公開部都民情報課
次回からは言問橋です。
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