前回みたように、富岡神社の参詣者に愛された油堀川の小さな渡しに大きな転機が訪れます。
大正12年(1923)に発生した関東大震災は、深川の町にも壊滅的な被害をもたらしました。
そこからの復興事業では、河川を重要な物資輸送手段ととらえて、集中的に予算が投入されていきます。
まさに、「復興は橋から」となるのですが、その一環で油堀川も改修されるとともに、地域の道路網も整備されていきます。
そうした中で、この場所も渡しに変えて、はじめて橋を架けることになったのです。
こうして、現在の江東区深川2-1 と富岡1-17 へ、油堀川に架されていた長さ20.4m、幅11mの鋼桁構橋が昭和4年(1929)に竣工しました。
江東区教育委員会が平成30年に設置した説明板には、和倉橋の一般図【一般構造図並びに装飾図(昭和2年) (「震災復興橋梁図面901枚」(江東区指定文化財江東区所蔵))】が掲載されているので、これを転載します。
よく見ると、橋の両端にあるのが留柱を兼ねた親柱が小さく見えます。
もとは四基あったうちの「和倉橋親柱 二基」が残って、「現代に伝わる震災復興橋梁の面影」として平成29年4月1日に江東区指定有形文化財(建造物)に指定されました。
また説明板にはこう記されています。
「両親柱は、上中下3段の本体と台石で構成されています。本体・台石はいずれも花崗岩製です。各部材は後にモルタルで接合されました。また正面には、「わぐらばし」と記された橋名板(陽鋳・鉄製)がはめられています。この親柱の特徴として、側面に見られる放物曲線状のデザインがあげられます。これは大正期に流行した建築様式色である表現主義の影響と考えられます。」
「このように本親柱は、一見形態に変化が見られますが、失われた震災復興橋梁の面影を現代に伝え、さらに当時流行していた表現主義のデザインを知ることができる貴重な文化財です。」
そうか、このモダンなデザインはドイツ発の総合芸術運動、表現主義の影響を受けたのか、と感心します。
確かに、厩橋をはじめ、復興橋梁と表現主義は仲良しです。
次に、この橋があったころの様子を情感たっぷりに描いた泉鏡花の作品を見てみましょう。
「色なき家にも草花の姿は、ひとつひとつ女である。軒ごとに孅き娘がありそうで、皆優しい。
横のこの家のならび、正面に、鍵の手になった、工場らしい一棟がある。その細い切れめに、小さな木の橋を渡したように見て取ったのは、折から小雨して、四辺に靄の掛かったためで、同伴の注意を待つまでもない、ずっと見通しの、油堀川からの入堀の水に、横に渡した小橋で、それと丁字形に真向こうへ、雨を柳の糸状に受けて、縦に弓型に反ったのは、即ちもとの渡船場に変えた、八幡宮、不動堂へ参る橋であった。」【泉鏡花『深川浅景』】
ちなみに、文中の「横に渡した小橋」が八幡橋(旧弾正橋)です。
富岡八幡の周りには、遊郭や料理店が軒を連ねる歓楽街、今の姿からは想像できない艶っぽい雰囲気があったのです。
かつては油掘川と橋、八幡宮の森が織りなす美しい光景が広がっていたのですね。
深川八幡の周辺には、この平清をはじめ、高名な料理店が多く、また妓楼もある歓楽街でした。
また深川八幡の仲町は、あの名高き「辰巳芸者」の本拠地の一つでもあったのです。
その後、この橋は東京大空襲にも耐え、地元民の生活を支え続けていきます。
しかし、昭和50年(1975)に油堀川が首都高速建設用地となって埋め立てられ、橋が撤去されてしまいます。
和倉橋は造られてから わずか半世紀足らずでその歴史の幕を下ろすことになったのです。
そしてどうした訳か、欄干の端にあった親柱2基だけが残されました。現在は、高速9号深川線の高架下の道を挟み南北に置かれています。
ここまで和倉橋についてみてきました。
次回では、最後に改めて、橋名板の謎に迫っていきたいと思います。
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