前回見たように、地下鉄なのに鉄橋とは、何が起こったのか?
ここで再びR君に登場してもらいましょう。
私の話にすっかり興奮したR君、「丸ノ内線が全線開通までかなり苦労したことはご存じですよね。」ちょっといたずらっぽい表情を浮かべて聞いてきます。
「そうそう、たしか戦前に計画してたんじゃなかったっけ・・・」こう答えるのがやっとの私、実はよく知らないのです。
知ったかぶりで何とかごまかそうとしたのですが、R君は見逃してくれません。
「計画どころか、着工してたんですよ。」
ここからはR君による解説をダイジェストでお伝えします。
昭和2年(1927)に日本ではじめて地下鉄・銀座線が開通して大成功を収めると、新しい都市交通としてさらなる地下鉄建設の機運が高まります。
こうした中、昭和16年(1941)に発足した帝都高速度交通営団によって新宿~築地間の建設が計画されました。
さらに、昭和17年(1942)には赤坂見附~四谷見附間が着工されたのですが、戦争が激化したことで工事は中止になっちゃいます。
そして戦争が終わると、昭和24年(1949)に改めて池袋~神田間7.7㎞の地下鉄建設が決定されて、昭和26年(1951)に着工されます。
この年の9月にはサンフランシスコ講和会議が開催されるという中での出来事でした。
「あれ、丸ノ内線に神田駅あったっけ?」私が茶々を入れるとR君の目がきらりと光ります。
メガネの縁を押して直しながら、「そうなんですよ」と待ってましたとばかり話を続けます。
昭和28年(1962)になって当初目指していた国鉄神田駅付近を経由することが予算・工期そしてなにより技術的に困難であることが判明して大手町経由に変更されたのです。
なので、丸ノ内線に神田駅はできませんでした。
着工からだいぶたってからの計画変更、ちょっと驚きですよね。
そこで改めて技術面を中心に見ていきましょう。
建設工事は池袋側からはじめられました。
池袋~御茶ノ水(計画変更でとりあえずの目的地になった)までの区間はすべて開削工法がとられたので、地下鉄路線は比較的浅い位置に造られます。
このため、地形的に窪んでいる茗荷谷駅や後楽園駅あたりでは地上を走ることになるのですが、これは効率よく建設することを優先してのこと。
私は起伏の大きい武蔵野の縁辺部を中々うまくやったと感心しています。
そうしたこともあって、工事は比較的順調に進み、昭和29年(1954)に池袋~御茶ノ水間6.4㎞が無事開通しました。
そしてそのまま、引き続き同年に御茶ノ水~東京間に着工します。
いよいよ神田川橋梁部分に差し掛かりました。
少し前の地下鉄銀座線建設時は、神田川部分も開削工法で建設しています。
今回の工事でも、ここまでの区間や銀座線と同じく開削工法を採用したいところですが、ここまでの路線の深度が浅すぎて、駿河台を深く切り込んだ神田川の下に路線を通すことはできません。
かといって戦前からすでにあるJR中央・総武線がありますので高さも決まってきます。
しかも神田川は船も通るのですから、おのずと地下鉄路線の場所は限定されてくるのです。
そんなわけで、現在みる鉄橋建設となったわけです。
神田川を現行の高さで、しかも斜めに横切る橋梁を作るほか手段がなかったのですね。
苦労のかいあって、昭和31年(1956)に御茶ノ水~淡路町間0.8kmの一駅間が開通します。
そして昭和34年(1959)に丸ノ内線は全線16.6㎞の開通にこぎつけました。
ここまでR君が地下鉄丸ノ内線について力説してくれました。
次回も引き続き語ってくれます。
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