前回まで歴史から大和橋を見てきました。
今度は見方を変えて、大和橋の痕跡を求めて交差点付近を探索してみましょう。
大和橋交差点に来てまず目につくのが、交差点の北側と南側にある幅の薄い建物です。
このうち、交差点北側(靖国通りの北側歩道の脇)の建物から見てみましょう。
近づいて建物の中をのぞいてみると、内部に西側から下って地下空間に降りるスロープがあるではありませんか!
驚いたことに、交差点脇の建物はスロープの覆屋、では地下にいったいなにがあるのでしょうか?
今度はこの建物の北側に回り込んでみましょう。
すると、地面に接したコンクリートがオレンジに塗られた部分が目に飛び込んでくるではありませんか!
しかも、建物の反対側に回り込んでみると、同じように地面近くのコンクリートが一部分オレンジに塗られた部分が目に入ってきます。
これは何を意味するのでしょうか?
次は建物の東側、つまりスロープ部分の入り口とは反対側を見てみましょう。
ここでじっくり観察してみると、スロープ覆屋の建物がコンクリートブロックを積み上げて造られているのに対して、この建物が土台にしているコンクリート材があるのです。
このことは、この建物より古いコンクリートの建築物があることを意味しています。
さらにスロープ部分をのぞいてみると、先ほど見た古いコンクリート材がそのまま壁面を構成して地下空間までつながっているように見えます。
つまり、コンクリートブロックで造られたこの建物は、この建物が建つ前からあった大きなコンクリートの建築物の上に乗っかった状態にあるのです。
次は車道部分に目を転じてみましょう。
靖国通りに注目すると、道路を斜めに横切る二条の筋がはっきりと確認できます。
それを延長すると・・・先ほど見た一部分オレンジに塗られた部分に対応しているではありませんか!
幅は5m前後でしょうか。この筋は、靖国通り部分にだけあって、神田平成通り部分にはありません。
この二条の筋は何を意味しているのでしょうか?
謎を解明するために、今度は交差点を渡ってみましょう。
横断歩道は中央で小さな緑地に至ります。二つの大通りのはさまれるこの部分は、大きさからみて前回に見た「橋の中央部には3寸高さの安全地帯81坪7合」(『帝都復興史』)なのでしょうか?
さらに神田平成通りを渡って、南側の建物を見てみましょう。
やはり北側同様、こちらも内部に地下に降りるスロープが造られています。
ただし先ほどの北側で目立っていたオレンジ色に塗られた部分はありません。
しかし、北側の建物で見たのと同じように、建物よりも古いコンクリート建築物の痕跡がさらにはっきりと残っています。
建物よりも古いコンクリートの建物が造る地下空間へスロープがつながっている点も、先ほど見た北側建物と同じです。
ここまで見て再び『帝都復興史』の記述を思い出してみましょう。
「橋の表面は間知石を以つて仕上げたるもので頗る美観を添えている。」「高欄の構造は橋の上には鋳鉄及び切石を応用し、橋袖には切石のみが使用されている。」残念ながら、これらの部分は現在は確認できません。
「橋上路床は本道歩道とともに鉄筋コンクリート及びコンクリートにて築造」した部分が先に見た古相のコンクリートに該当する可能性が考えられます。
その場合は、「橋桁下空間の限界は潮位上において幅員8m20にしてその高さは3m05となっている」部分をガレージか倉庫に転用しているのではないでしょうか?
現地で大和橋をめぐる謎を探査したところ、いくつかの事実を確認することができました。
①現在交差点に立つ建物が、巨大なコンクリートの建築物の上に立っていること。
②交差点の下には地下空間が広がっていて、地上とスロープでつないで現在も活用していること。
③交差点の車道部分を斜めに横切る二条の筋があること。
これらを踏まえて、次回では視点を変えてさらに謎に迫ってみましょう。
コメントを残す