前回までで歴史と現地調査で大和橋の謎を探ってきました。
今回はこれらの結果をふまえて航空写真を観察してみましょう。
まずは現地で確認した内容を、再び航空写真で確認してみましょう。
使用するのは大和橋編③でみた昭和21年撮影の航空写真(国土地理院Webサイトより、USA-M698-95【大和橋付近を拡大】(以下では航空写真①と呼びます))と昭和27年撮影の航空写真(国土地理院Webサイトより、USA-M288-47【大和橋付近を拡大】(同じく航空写真②))の二枚の航空写真です。
航空写真①では、埋め立て前の大和橋の姿がはっきりと確認できると思います。
よく見ると、靖国通りと神田平成通りが橋の上で合流していると同時に、立派な歩道が橋の両側に取り付けられていのも確認できるでしょう。
さらには、浜町川や神田川には船も見えて、河川交通が維持されているのが分かります。
次に、航空写真②を見てください。
浜町川は埋め立てによって消失しています。
そして今度は航空写真①と②をよく見くらべてみてください。
そうすると、川は無くなったものの、歩道や安全地帯の位置が変わっていないのが分かるでしょうか?
そして、さらにこの写真で注目してほしい点が、もう一つあります。
それは、橋の横に細長い建物がそれぞれ立っている事実です(赤い矢印の先)。
これは現地で見た橋の下部空間に至るスロープ上の建物に他なりません。
この建物、航空写真②が撮影された時点ですでに完成しています。
つまり、その下にあるコンクリートの建築物は、それよりも前のもの、ということになりますよね。
二枚の航空写真から、次の三つのことがわかりました。
④浜町川埋め立てを挟んでも歩道の位置や構造が変わっていません。
⑤前回の③で見たように、橋の歩道部がそのまま残っています。
⑥浜町川埋め立て直後からこの橋の地下空間の利用が始まっています。
これに、前回までに分かったことをもう一度記します。
①現在交差点に立つ建物が、巨大なコンクリートの建築物の上に建っていること。
②交差点の下には地下空間が広がっていて、地上とスロープでつないで現在も活用していること。
③交差点の車道部分を斜めに横切る二条の筋があること。
私は、①から⑥の事実から判断して今現在もかつて日本一の幅を誇った大和橋がそのままの姿で地中に残されていると考えています。
現時点では目視で概要確認しただけですので、さらに綿密な調査を行う必要があると思っています。
みなさんはどう思いますか?
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にさせていただきました。(順不同、敬称略)
また、文中では敬称を省略させていただきました。
引用文献:『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』復興調査協会編(興文堂書院、昭和5年)、『帝都復興事業誌 土木編 上巻』復興事務局編(復興事務局、昭和6年)、『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、昭和7年)、『中央区史 下巻』(東京都中央区役所、昭和33年)、『千代田区史 区政史編』(千代田区総務部、1998)、鈴木理生『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』(柏書房、2003)
参考文献:石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』1977新人物往来社、伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』1986 鹿島出版会、東京都建設局道路管理部道路橋梁課編『東京の橋と景観(改訂版)』1987東京都情報連絡室情報公開部都民情報課、街と暮らし社編『江戸・東京文庫① 江戸・東京 歴史の散歩道1』1999 街と暮らし社
次回は鞍掛橋です。
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