前回まで「かわいい橋」浜洲橋の生涯を見てきました。
今回は橋の痕跡を求めて跡地周辺を歩いてみましょう。
写真は近隣の住所表示板で、赤○部分が浜洲橋の跡地です。
まずは日本橋浜町のランドマーク・複合商業施設のトルナーレへ。
その裏手、南角の交差点が浜洲橋の跡地です。
かつての浜町川は緑道に生まれ変わっていて、その中には川や河岸のモニュメントらしきものも設けられています。
そしてやはり目につくのが首都高速浜町出口の高架道で、その向こうには有馬小学校の瀟洒な校舎が見えます。
交差点を渡ると、もうそこは有馬小学校、子供たちの元気な声が聞こえてきます。
かつては復興建築の小学校と橋が近接する独特の雰囲気を持つ空間でしたが、今は橋がなくなり小学校も建て替えられています。
現地に行っても、浜洲橋の痕跡は全く見当たりません。
跡地の交差点には名前がないようですので、かつての橋の名を残してくれたらいいのになあ、と思うのでした。
さて、後日。
ようやく浜洲橋の写真を見つけました!
しかし、何かが変です。
そこで、『中央区の橋・橋詰公園 -中央区近代橋梁調査-』を見てみると、「側面図をみると、床板の下にデンティル装飾(註:建物の軒下などに施される鋸歯文などの帯状の飾り)が施されているように見えるが、これはコンクリート・ブラケットの鼻(端部)である。」とあります。
「デンティルじゃなかった!!」
一言叫んで落ち込む私を見かねたのか、娘たちが橋の写真を見て、「この橋、ちまっとしててかわいいね!」と声をかけてくれました。
改めて橋の図面を見せて説明すると、「だいぶ印象は違うけど、これはこれでありだと思うよ!」
「なんかケーキにのってそう、かわいい!」
改めて写真の浜洲橋を見ると、すっきりした中にも橋脚の曲線が印象的で、全体がなんだかふわりとした柔らかさがあり、確かに味わい深い感じです。
「この上を小学生が渡ると絵になりそうだね」
「傘持ってるのもいいかも」
「夕焼けが似合いそう」
三人でいろいろと想像を巡らせて楽しんだのでした。
浜洲橋の姿には、見る人になにかを思い起こさせる力があるステキな橋だったのかもしれません。
みなさんもぜひ、かつてかわいい橋・浜洲橋とおしゃれな有馬小学校が並んでいた時代を想像してみてください。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にさせていただきました。(順不同、敬称略)また、文中では敬称を省略させていただきました。
引用文献: 『本邦道路橋輯覧』内務省土木試験場(道路改良会、1928)、『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)、『中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査-』(東京都中央区教育委員会教育課文化財係、1999)
参考文献:『帝都復興事業誌 土木編 上巻』復興事務局編(復興事務局、1931)、『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、1932)、『東京市史稿 橋梁篇第一』(東京市役所、1936)、『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)、石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』(新人物往来社、1977)伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』(鹿島出版会、1986)、『千代田区史 区政史編』(千代田区総務部、1998)、鈴木理生『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』(柏書房、2003)、本田創『東京暗渠学』(洋泉社、2017)
次回は千鳥橋です。
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