前回、橋愛好家仲間からの評判をいろいろと聞かされた竹橋ですが、そもそもどんな橋なのでしょうか?
今回はこの橋の歴史をひも解いてみましょう。
竹橋の名前は、徳川家康の江戸入府時に竹で作った簡単な橋があったことに由来します。
『府内備考』によると、家康の武蔵入国の時に「竹をあみて渡されしよりの名」で、毛利家譜に大阪両度の陣で大膳太夫忠重が「江戸竹橋口御門」の守備をつとめた記載が残っています。
前回に少しだけ出てきましたが、竹橋がある旧江戸城北の丸の東部に太田道灌の江戸城があったのですから、竹橋もその時からあったのかもしれません。
それにしても、竹を編んで造った橋ってどんなものか、私には想像できない代物です。
徳島県祖谷の「かずら橋」みたいなものでしょうか? それとも、雲南にあるという竹で作った橋みたいのもの? 私にとって竹橋をめぐる謎の一つです。
他にも、北条家の家人、在竹摂津守にちなんで在竹橋と言っていたのが省略されたという説(『府内備考』)や、佐竹橋と言っていたのが略されたという説(滝沢馬琴)もあります。
名前の由来はともかく、旧江戸城の十五曲輪門の一つであった竹橋は、天和6年(1620)に仙台藩伊達家ほか6名の大名によって作られました。
千代田区設置案内板掲載の安政三年の北の丸周辺地図を見ると、竹橋が江戸城の本丸と北の丸をつなぐ重要な位置にあることがよくわかります。
またこの橋は、江戸っ子たちにとってはちょっと特別な橋でした。
その雰囲気は、月岡芳年が江戸城を出る山車を描いた「月百姿 神事残月」(1886 大英博物館)を見るとよくわかります。
江戸時代、竹橋は神輿が通る橋として広く知られていたのです。
それは天下祭と呼ばれた山王社(現在の日枝神社)と神田明神(同 神田神社)の神輿や山車が、田安門から江戸城内に入って将軍上覧を仰いだ帰りにこの竹橋御門から出る習わしでした。
この場面は、浮世絵にも描かれる人気のシーン、ここでは歌川広重「名所江戸百景 糀町一丁目山王帰り込」(1856 大英博物館)をあげておきます。
この絵を見ていると、夕闇迫る中、祭りの参加者たちのどや顔が浮かぶようですね。
この竹橋、明治維新後は麹町町民の請願があり、この門を通って丸の内方面に行けるようになりました。
この頃ののどかな様子は、永井荷風の『下駄日和』に描かれています。
私はこの情景が大好きですが、それはまたの機会にしましょう。
そして、明治7年2月には旧北の丸に近衛兵営が設置されて、竹橋はその正門とされました。
これが世に言う「竹橋営所」で、竹橋が東京ならずとも広く知られる存在になります。
竹橋営所の平時の様子を、井上安治が「竹橋内」(『東京名所』明治10年 国立国会図書館)に描きました。
この作品からは、永井荷風が描いたのどかさが感じられます。
ここでちょっと前回話に出た竹橋事件についてみてみましょう。
西南戦争がようやく終息し、日本がようやく明治維新の混乱から抜け出そうとしていた明治11年(1878)8月23日に、旧江戸城北の丸に設置されていた近衛(このえ)砲兵大隊と近衛歩兵第二連隊の兵士が突然反乱を起こし、武装蜂起した事件です。
近衛歩兵第一・第二連隊の営門が江戸城内堀に架かる竹橋だったことから、竹橋事件とか竹橋騒動(暴動)などと呼ばれています。
日本軍で最初の反乱事件ですが、終戦時まで秘匿されていたこともあって、広く知られる事件ではありません。
次回では明治政府を揺るがす大事件だった竹橋事件について、もう少し詳しくみてみましょう。
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