前回、最後の最後で藩論がまとまって新政府に恭順した津山藩をみてきました。
そこで今回は、時代が明治へと変わってからの津山松平家を見ていくことにしましょう。
版籍奉還
津山藩の領内では、いまだ混乱状態が収まらない中、明治2年(1869)薩摩・長州・土佐・肥前佐賀四藩が連署して、藩籍つまり領地と領民を朝廷に奉還(返上)すると、2月24日に津山藩もこれに続きました。
そして藩知事となった慶倫は、明治2年8月15日にすべての藩士に登城を命じて藩の上級役人の公選を行ったのです。
その結果、鞍懸寅二郎が参政へと復帰して藩政改革に着手しています。
翌明治3年(1870)に藩校を整備して和洋漢の学修所として修道館と名付けるとともに、士族のみならず平民でも通えるように改革しました。
しかし、藩政改革半ばの明治4年(1871)に廃藩置県が断行されて、津山藩が消滅、旧津山藩主・慶倫は上京を命じられたのです。
その後、慶倫はその年のうちに東京で死去、ついに津山藩政の全権を掌握することはありませんでした。(『華族総覧』)
津山県と北条県
ところで、津山藩の廃止によって誕生した津山県ですが、その年のうちに美作国一円を範囲とする北条県設置に伴って廃止、その北条県も明治9年(1876)には岡山県と合併されて廃止されてしまいました。
ちなみに、旧津山藩領での混乱は続いて、明治6年(1873)の地租改正の折には、これに反対する大規模な一揆が起こっています。
津山藩は、明主・確堂のもとにあっても、勤皇派と保守派の対立は、両派の藩士が殺し合う最悪の事態は避けられたものの、収まることがありませんでした。
そして、藩財政はほとんど破綻していましたので、財政面から見ると廃藩置県はラッキーだったといってよいでしょう。
結果として、勤皇派から剣術家として知られた井汲唯一と、同じく砲術植原六郎左衛門が自害に追い込まれ、藩士の投票で大参事に選ばれた鞍懸寅二郎がピストルで射殺されるなど、貴重な人材が失われたことは、大きな損失といわざるを得ません。
松平康倫(やすとも・1856~1878)
安政2年(1855)に家督相続した藩主慶倫は、津山から東京に移った明治4年(1871)8月10日に斉民の実子(四男)の康倫を養子に迎えて家督を譲った後、8月12日に死去し、康倫が家督を継ぎました。(『華族総覧』)
ちなみにこの康倫、津山松平家世子だった明治3年(1870)3月2日に津山主別邸の衆楽園にかつての親しい文雅の士を集めて、家臣たちや城下の人々が眺める中、曲水の宴を開いています(『津山市史』『津博 津山郷土博物館だより No.76』)。
この曲水の宴は現在でも津山の春の恒例行事となっており、市民によって大切に守られているのです。
そして康倫は東京に移ってからも健康がすぐれず、明治10年(1878)に死去してしまいます。
津山城破却
いっぽう、津山の誇りであった津山城は、明治4年(1872)に実質的に廃城となってしまいました。
津山城はその後、明治6年(1873)に建物を取り払う廃城の命が下ります。
ところが、所管が陸軍省から大蔵省へと移った際に北条県によって建物の払い下げが実施されたものの、実地検分するとすでに城の建物は無くなっていたというから驚きです。
どうやら一揆や反乱が頻発する状況で、これらの勢力が立てこもるのを恐れた北条県が先手を打って建物を取り壊したということのようです。(以上『津山市史』)
いっぽうで、明治6年の払い下げで建物が1,125円で落札されていることから、城郭として機能しない程度の破棄で、まだ建物が残っていたとする見方もあります。(「廃城一覧」)
いずれにせよ、明治7~8年(1874~5)にかけて天守以下の建物を取り壊したのち、濠も埋め立てられました。
明治33年(1900)には津山町が城地の大半を買収して公園としています。(『津山市史』、「廃城一覧」)
こうして津山藩も、シンボルだった津山城も消えてなくなってしまいました。
その後、津山松平家はどうなってしまうのでしょうか?
次回は明治・大正時代の津山松平家をみていくことにしましょう。
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