《最寄駅:東京メトロ東西線・JR山手線・西武鉄道新宿線 高田馬場駅》
安政2年(1855)に松平慶倫が津山松平家を相続した時、津山藩には鍛冶橋に上屋敷、高田に下屋敷、深川西大工町と谷中本村に抱屋敷(私有地)と砂村新田に広大な抱地(私有地)がありました。
また、隠居した松平斉民(確堂)には蠣殻町に浜町中屋敷が与えられるとともに隣接する清水家屋敷が御預けとなり、これに加えて姿見邸がありました。(『津山市史 第5巻-幕末維新-』)
今回はこのうち、姿見邸跡地を歩いてみたいと思います。(グーグルマップは松平男爵邸跡地の戸塚警察署を示しています。)
姿見邸跡への道
スタートは東京メトロ東西線高田馬場駅7番出口、JR山手線高田馬場駅からは、駅北の早稲田通を200mほど東に行ったところです。
出口の前を通る早稲田通の道向こうに、北へ曲がる道が見えますが、その一本東側の道がかつての馬尿川、ここからが姿見邸のあった源兵衛村となっています。
ちなみに、馬尿川は今も道の下を暗渠となって流れているのですが、なかなか気づきませんよね。
この源兵衛村ですが、西は馬尿川だった道、南はおおよそ早稲田通、北は神田川、東は面影橋からのびる旧鎌倉道の範囲となっています。
この源兵衛村の北側一帯がかつての姿見邸でした。
それでは、源兵衛村西堺の馬尿川だった道から一本東の道を曲がってみましょう。
少し行くと、右手に細くて急な階段が見えてきます。
ここを上って最初の北に向かう道と、今進んできた道の交わる角が、姿見邸の南西コーナーでした。
進路を北にとると、すぐに長い下り階段に行きつきます。
姿見邸跡の北を流れる神田川
これを下ると平坦面に出ますが、50mほどでもう神田川に出てきました。
神田川沿いには美しい散策路が整備されていますので、これを東に進みましょう。
この神田川をのぞくと、深く切り込んで断面がU字状、川は歩道のかなり下を静かに流れています。
この神田川、じつはかつて、今よりだいぶ蛇行が激しかったものを第二次大戦ころに直線に改修した結果、見えてきた三角の土地は豊島区の飛び地というから驚きです。
さて、豊島区飛び地手前で神田川と別れて細道を南下すると、50mほどで少し幅の広い道が直交していますので、交差点を東に曲がってみましょう。
すると、100mほど先に、高い盛り土の壁が見えてきました。
これは明治通の盛り土、現在はこの大通りで姿見邸は東西に二分される方にとなっています。
そして、間もなく道の南側に小さな公園が見えてきました。
姿見邸とは
この「まつ川公園」で休憩がてら、ここまで見てきたことを思い出して、姿見邸の地形を確認してみましょう。
この公園横にも南へのびる登り坂が見えていますが、ここまで見てきたように、かつての源兵衛村は、三方を崖面に囲まれた舌状の台地の地形だとわかりました。
神田川も水面は低くて引水はできませんので、『新編武蔵風土記』にあるように、源兵衛村は南の戸塚村からの余水で田畑を作るほかはなかったのです。
このように水利に恵まれない土地だったからこそ、江戸時代の初めに小泉源兵衛が開墾するまで荒れ地のまま残っていたのでしょう。
田畑は水が得られる戸塚村との境界近くの現在の早稲田通沿いと、小川の流れる村の東端に限られていたとみてよいでしょう。
ここまでみてくると、姿見邸の下となった楽其楽園の広大な用地部分は、水に恵まれない源兵衛村にあって、もっとも水が得にくい場所であったといえそうです。
庭園が造られる前は、畑が散在する荒れ地だったのではないでしょうか。
このように水に恵まれない場所でしたが、大名庭園に豊富な水は欠かせません。
では、水はどこから得ていたのでしょうか?
そこで、艮斉安積信が記したこの庭園の園記・「楽其楽園記」(『東京市史稿 遊園篇 第3』)を見ていきたいと思います。
楽其楽園
楽其楽園には「菅廟」のある丘をはじめ、「収拾臺」や「觀耕丘」という高まりがあって、その麓にある「漱瓊泉」という湧水から園内に池や小川を巡らせた「水石幽雅草樹陰森」な回遊式庭園でした。
そしてこの園内に「乃辰館」をはじめとする7棟の建物が配されていたと記しています。
「楽其楽園記」にある三つの高まりは、私たちの見た舌状の台地と思われます。
この麓の湧水から、崖下の平坦地に川や池を造り、これを見下ろす形で崖面から台地面に小道を巡らせていたのです。
この雰囲気は、500mほど東にある旧清水家下屋敷「甘泉園」とかなり似たものといえるでしょう。
また、付近を流れる馬尿川や松川は、農業排水が流れ込んでいるので苑池には利用できなかったのでしょう。
庭園の様子が分かったところで、改めて「楽其楽園(らくきらくえん)」の歴史についてみてみましょう。
この庭は、天保8年(1837)に信濃国飯田藩主堀大和守親寚が新宿・源兵衛村に造らせたもので(「楽其楽園記」)、堀大和守がもとあった廃園を購入して林祭酒述斉に命じて改修した五十六勝の景物をもつ名園(「明治庭園記」)でした。
天保の改革失敗で水野忠邦が失脚すると、これに連座して側近だった堀大和守も失脚、石高を減らされた上に隠居・逼塞させられて三年後に63歳で没します。
その折に、楽其楽園は嘉永2年(1849)に尼崎藩松平遠江守忠栄(ただなか)に譲渡されたのでした。
いっぽう、津山藩八代目藩主だった松平斉民は、安政2年(1855)に養継子の慶倫に家督を譲って若隠居して確堂を号し、津山藩高田下屋敷内に隠居所を設けました。
ところが、安政6年(1859)2月22日に屋敷は類焼して確堂の隠居所も被害を受けたことから、尼崎藩松平遠江守忠栄(ただなか)抱屋敷となっていた楽其楽園を確堂が譲り受けてここを隠居所としますが、その際に姿見邸と名付けたのです。(『津山市史 第5巻-幕末維新-』)
「姿見」とは、この辺りにあった名所・姿見橋にちなんで確堂が自ら名づけられたもので、謹厳温雅で学問・文雅・書画に通じた教養人であった確堂らしいネーミングといえます。
ちなみに、名所として江戸っ子たちの間で知られていた俤橋(面影橋)と姿見橋の位置は、諸説あって定かではありません。
ところでこの後、確堂は明治4年から根岸邸を新築、その年末には根岸に移ると、姿見邸は「全苑を破壊し忽、田地、及畔畝に變ぜり」(「明治庭園記」)とほとんどを田畑や家作に変えてしまったのです。
松平男爵姿見邸
本邸を移した後も一部の建物を残した屋敷があったようで、『土地概評価 豊多摩郡戸津町 大正9年11月調』の戸塚町の章に、大字源兵衛に松平邸が存在することが記されています。
さらに、確堂が明治24年(1891)に没すると、八男の松平斉に譲渡されました。
ですが松平子爵家本郷本邸に同居していた斉は、明治29年秋に身重の妻を残して失踪してしまいます。(第10回「松平男爵失踪事件」参照)
その時身重だった妻の浪子も本郷邸に同居していましたが、明治30年に長男斉光が誕生するのと前後して根岸邸に移っていたようで、『人事興信録 初版』によると松平男爵家は斉の名義で明治36年には根岸邸に移ったことが確認できます。
浪子はこのまま根岸邸で斉光を育てて、成人した斉光は大正10年(1921)までに、再び源兵衛村に残していた屋敷に戻りました。
その住所が豊多摩郡戸塚町源兵衛192、現在の戸塚警察署のある場所なのです。(『人事興信録 第6版』)
これは、斉光が結婚を控えて住む家を整えたということでしょう。
そして大正13年頃には徳川(水戸)侯爵家昭武三女の直子と結婚、その後一男三女に恵まれて、昭和18年(1943)には母浪子とこの家で暮らしています。(『人事興信録 第14版下』)
ところで、斉光は大正10年(1921)に東京帝国大学法科政治科を卒業して、大正14年(1925)からイギリスとフランスに留学、パリ大学から博士号を受けています。(『議会制度七十年史』)
帰国した昭和2年(1927)からは、東京帝国大学農学部、日本大学や法政大学の明治大学講師となり(『議会制度七十年史』)、その後駒場農大講師として農政経済学を教えるようになっています。(『戸塚町誌』)
昭和21年(1946)5月から昭和22年(1947)5月まで、日本国憲法の施行によって貴族院が廃止されるまでの最後の期間、貴族院議員を務めました。(『議会制度七十年史』)
そして終戦を迎え、華族制度の廃止に伴って松平男爵家は廃爵となったのは、前にみたとおりです。(第10回「松平男爵失踪事件」参照)
その後、浪子は昭和29年(1954)に没、斉光は都立大学の名誉教授となった後、昭和54年(1979)に没、家督は長男の斉義が継承しています。(『平成新修 旧華族家系大成』)
焼失を免れた松平男爵姿見邸(中央)、昭和23年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M737-70〔部分〕) 本館が残る松平家姿見邸(画面中央)、昭和38年撮影空中写真(国土地理院Webより、MKT636-C6-16〔部分〕)
姿見邸の痕跡を探して
それでは、休憩もできましたので、散歩を再開しましょう。
次は松平男爵家の家作だったころを彷彿とさせてくれる景色をみに行きたいと思います。
まずは「まつ川公園」隣の階段を上ります。
ところでこの階段ですが、じつはかつて「松川」という小川が流れていたところ(新宿区HP)、「楽其楽園記」に出てきた小川のいずれかに該当するのかもしれません。
階段を上って少し行くと十字路があり、ここを左の東方向に曲がりましょう。
この道からは崖面で行き止まりになった短い道が枝分かれしていますが、中には舗装してないものも見られます。
この特徴的な町割りは、効率的に家作を配するためにつくられたものなのでしょう。
そうこうしているうちに、明治通が見えてきました。
ここに見える南へのびる細道、住所で言うと高田馬場2丁目4番地を歩いてみましょう。
6段の階段を下ると、中央がコンクリート舗装された路地は何とか人がすれ違えるほどの幅、両側に木造家屋が並んでいます。
さらに奥へ進むと、飛び石を置いた土の道、しかも細かく屈曲しているうえに、進むほどに細くなっていくではありませんか。
両側には風情のある木造家屋がびっしりと建ちならび、よくみると大谷石の石垣も残っています。
土地の高低差もうまく取り込んで、路地はまるで迷路のようになっているのです。
このような形態は、限られた空間に可能な限り家屋を建てるためのものと考えられることから、松平男爵家の家作の土地利用形態が遺存したものと思われます。
この辺りは静かな住宅地ですので、見学する際には住民な方々に十分配慮してください。
再び入り口に戻って、明治通をみると、戸塚警察署、かつて松平斉光男爵邸のあったところに出てきました。
ここは後でじっくり見るとして、いったん戸塚警察の前を通過して明治通を神田川まで下っていきましょう。
この通りは関東大震災からの復興事業で造られた大幹線道路で、神田川に架かる高戸橋もこの時に創架されています。
そしてなによりこの場所は都電荒川線撮影ポイントとして有名な場所、どこかでご覧になった方もおられるかもしれません。
新目白通と都電荒川線を渡って、神田川沿いの遊歩道を下流の東方向へ歩いてみましょう。
高戸橋の次の橋・曙橋が見えたら、そのあたりが姿見邸の北東隅です。
姿見邸の北を流れる神田川 都電荒川線の走る新目白通り
曙橋で南に曲がって、再び新目白通と都電荒川線を渡ってから1ブロック西に戻ると、ここから西が姿見邸、今度は邸宅の東縁を歩いていきたいと思います。
南へ向かう坂道を登り、源兵衛村の共同墓地の横を通って次の角を右の西方向へ曲がって1ブロック行くと、またまた南へ向かう長い上り坂に出てきます。
次の曲がり角をさらに右の西方向へ曲がって1ブロック行くと、この辺りが姿見邸の南端です。
さて、ここでちょっとお思い出してください。
明治通の西側には崖面があって、その上下には平坦面がありました。
ところが、明治通の東側には崖が無く、ほぼ一定の勾配の坂道で、周辺がひな壇状に整地されていました。
どうして両者の違いが出来たのでしょうか?
では改めて、戸塚警察署、つまり松平斉光男爵邸跡を見ていきたいと思います。
明治通りと松平男爵邸跡の階段 松平男爵姿見邸の南端の道
警察の裏側から明治通を見ると、通りの手前に階段が残っているではありませんか!
明治通とその東側では傾斜が異なっているからできた階段なのでしょう。
先ほど高戸橋から見たように、明治通は東に残るひな壇状に整地に盛り土してなだらかな上り坂にしているのです。
関東大震災後の復興事業で造られた明治通は、松平斉光男爵邸の一部を用地に収用していたのを思い出してください。
そうすると、明治通の東側に広がるひな壇状の整地は姿見邸の名残で、屋敷の遺構なのではないでしょうか。
さらにこのまま坂道を登っていきましょう。
すると、50mほどで丁字路となっていますので、これを右の西方向に曲がります。
すると、細い曲がりくねった階段下に出てきました。
これは、明治通の西側で見たのと似通った光景だと思いませんか?
ここからは姿見邸の範囲外、ですのでこの部分だけ整形されずに崖面が残ったのです。
この階段を上ると、再び平坦面に出ました。
ちなみに、この辺りはかつて江戸川乱歩が下宿屋の大家兼管理人をしていたところです。
下宿人が何かとうるさいうえに、家賃値下げ交渉までしてくる状況に執筆どころではなくなってすっかり嫌気がさして、すぐにやめてしまったそうです。(『江戸・東京 歴史の散歩道2』)
ここからさらに南へ行くと、すぎに早稲田通に出てきます。
早稲田通を高田馬場方面へ下って400mほど行くと、スタート地点、今回の散歩はここで終了です。
私は、乱歩下宿屋跡から亮朝院、面影橋、甘泉園に寄道して高田馬場へ戻ったところ、約2時間30分の行程となりました。
江戸時代までさかのぼる姿見邸の痕跡は見られませんでしたが、近代の松平男爵姿見邸の痕跡を、地形の中に見出すことができたのではないでしょうか。
そして、近代のこの町の姿が部分的に残っていたことで、松平斉光男爵が生きた時代の様子を垣間見ることができたように思います。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
『新編武蔵風土記稿 十五』内務省地理局、明治17年
『江戸名所図会 十二』齋藤長秋編(博文堂、1893)
『人事興信録 初版』人事興信所編(人事興信所、1911)
『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会、1912
『人事興信録 5版』人事興信所編(人事興信所、1918)
『土地概評価 豊多摩郡戸津町 大正9年11月調』東京興信所、大正11年
「楽其楽園記」艮斉安積信(『東京市史稿 遊園篇 第3』東京市編(東京市、1929))
『戸塚町誌』戸塚町誌刊行会編(戸塚町誌刊行会、1931)
『人事興信録 第14版下』人事興信所編(人事興信所、1943)
『議会制度七十年史 貴族院・参議院議員名鑑』衆議院・参議院編(大蔵省印刷局(印刷)、1960
『津山市史 第5巻-幕末維新-』津山市史編さん委員会(津山市役所、1974)、
「明治庭園記」小澤圭次郎(『明治園芸史』日本園芸研究会(有明書房、1975、大正4年刊行本の再刊)
『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川地名大辞典」編纂委員会(角川書店、1988)、
『平成新修 旧華族家系大成』霞会館華族家系大成編輯委員会編(社団法人霞会館、1996)
『江戸・東京 歴史の散歩道2 千代田区・新宿区・文京区』街と暮らし社編(街と暮らし社、2000)、
『華族総覧(講談社現代新書2001)』千田稔(講談社、2009)、
公益社団法人新宿法人会HP:『新宿歴史よもやま話㊽ 源兵衛村の幻の名園(3)』鈴木貞夫、新宿区HP
次回は松平確堂・松平男爵家根岸邸の跡地を訪ねてみましょう。
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