松旭斎天勝が生まれた日
5月21日は、明治19年(1886)に「魔術の女王」と呼ばれた奇術師・松旭斎天勝(しょうきょくさい てんかつ)が生まれた日です。
そこで、天勝の数奇な運命をたどりながら、「女性活躍」が喧伝されている現代へのメッセージを探ってみましょう。
デビューから天一一座の花形へ
天勝は明治19年(1886)5月21日、神田で質店を営む父・中島栄次郎と母・静子の長女として生まれ、本名はカツです。
12歳、一説には9歳の時、父が事業で失敗して家が傾いたときに、わが国奇術の創始者・松旭斎天一に見染められます。
そして身請け同然の契約を結んで天一に弟子入りすることになりました。
カツは天一の愛人兼アシスタントとなって、天勝の名前を与えられたのです。
すると天勝は、天性の美貌と才覚で、一年足らずで娘奇術師としてデビューし、16歳のときには一座の花形となりました。
明治34年(1901)7月から天一一座は欧米巡業に出かけると大成功をおさめ、明治38年(1905)4月に帰国し、9月に歌舞伎座で凱旋公演を行っています。
欧米で習得したスピーディな新奇術を次々と披露すると、熱狂的な支持を受けて、20歳の天勝は万雷の拍手を浴びるようになったのでした。
こうして天勝は、一躍トップの人気女芸人へと昇りつめます。
天勝一座
明治45年(1912)に天一が死去したために一座が解散。
すると26歳の天勝は一座を結成、支配人の野呂辰之助と映画館・浅草帝国館で旗揚げ公演を行いました。
旗揚げ公演が大成功をおさめると、野呂辰之助と結婚しました。
そこからは野呂の興行力もあいまって、大正中期から昭和初期にかけて、「サロメ」「京人形」などの代表作やレビュー形式などの舞台演出を次々と生み出していきます。
ついに天勝の人気は絶頂を迎え、「奇術の女王」と称賛されるまでのなったのです。
120人を超える大一座を率いて、レビュー、寸劇、舞踊などをとり入れた華やかな舞台は、庶民の娯楽として全国の主要劇場で公演、海外でも好評を博しました。
野呂の没後、昭和9年(1934)から2年をかけた引退興行を国内にとどまらず、ハワイやニューヨークにも遠征しています。
そして、惜しまれながらも50歳で現役から退きました。
引退後は昭和11年(1936)3月封切りのPCL映画(のちの東宝)『魔術の女王』(監督・木村荘十二)に出演、翌昭和12年には姪の中川絹子に二代目を襲名させています。
晩年は東京外国語大学教授金沢一郎と結婚するものの翌年には死別。
天勝も昭和19年(1944)11月11日に弱冠59歳でその生涯を閉じました。
天勝の影響
天勝の華やかな舞台と、彼女のあでやかな姿は、多くの人たちを魅了してきました。
例えば、作家の吉屋信子は、幼いころに天勝に魅了されてその弟子になりたいと考え、雑誌に「松旭斎天勝女史」と題する大仰な賛辞を捧げています。
また、作家の三島由紀夫は幼年時代に新宿の劇場で「豊かな肢体を、黙示録の大淫婦めいた衣装に包ん」だ天勝をみて、天勝ごっこをしたと『仮面の告白』に記しました。
天勝の舞台を見た人は心を奪われて、ほとんど夢心地になってしまうものだったと伝えられています。
そして天勝見たさに九州や北海道から上京した人々が、浅草田島町あたりの旅館に何十人も泊まっていたのだとか。
天勝のサロメ
この時代、女である天勝が堂々と自分の名で一座を旗揚げするのは大変なことだったといいます。
天勝は旗揚げのころ、今でいう超人気アイドルのような存在でした。
そこから積極的にファンのすそ野を広げていき、一般のファンはもちろん、「オリヂナル香水」やレート化粧品のポスターモデルを務めるなど、大口スポンサーもしっかりとつかんでいました。
また、一座は旗揚げ時から大人気となりましたが、これを維持する努力もおこたりません。
旗揚げ公演からしばらくして、野呂は当時川上貞奴や松井須磨子が演じて評判を呼んでいた翻訳劇の「サロメ」に目を付けました。
そして「日本演劇の父」小山内薫に舞台監督を依頼して、天勝の「奇術応用サロメ劇」を有楽座で上演します。
日本人離れしたグラマラスなスタイルを持つ天勝演じるサロメが踊ると、それはもう妖艶ですばらしかったそうです。
ストーリーは、ヘロデ王の前で踊った褒美に、サロメが自分を拒絶した預言者ヨナカーンの首を所望します。
やがて銀盆に載せられたヨナカーンの無残な生首がもたらされると、これにサロメが接吻、すると生首の目がかっと見開かれて「すされ、バビロンの娘よ!」とサロメを一喝するというものでした。
天勝のサロメは、名作を冒涜するものとして評論家たちには散々でしたが、小山内や観客たちは大満足、以後はサロメが天勝の持ち役の一つになったのです。
松旭斎天勝の歴史性
また、当初は観客の大部分が男性で、エロ式の舞台だった内容も、工夫して家族で楽しむことができる奇術一座へと変えていきました。
当時、奇術は「色物」として扱われ、演芸の中でも芝居や落語と比べて一段下だと思われていたそうです。
そんな中、120人を超える大一座を率いて、「水中美人」「月世界突入」など千数十種の奇術を考案し、レビュー、寸劇、舞踊などをとり入れた華やかな舞台は、人びとから圧倒的支持を勝ち取りました。
天勝は、さまざまな興行が競い合う浅草にあって、その看板ともいえるまでに自らの奇術をエンターテインメントにまで高めたのです。
一人の女性として、独創的アイディアと次の時代を見据えた先進的取り組みで時代を切り開いていった天勝。
彼女こそ「女性活躍の時代」とされる現代において、あらためて注目すべき人物といってよいでしょう。
(この文章は、『松旭斎天勝』石川雅章(桃源社、1968)、『あの女性がいた東京の街』川口明子(1997)、『奇術師一代 松旭斎天一』青園謙三郎(品川書店)、および『明治時代史辞典』『日本芸能人名事典』『芸能人物事典』『国史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(5月20日)
コメントを残す