柳北小学校の始まりは、明治9年(1876)に設立された柳北女学校でした。
そこで今回は、柳北女学校が誕生したころをみてみましょう。
柳北女学校が生まれるまで
明治政府は女子の教育についても意を払い、東京府においても早くから女子学校の開設を模索していたが、女子教育には別の施設をつくることとしていました。
じっさい、東京で計画された最初の小学校8校のうちの一校は女学校でしたが、費用の点が問題となって、なかなか実現には至っていなかったのです。
この状況を受けて、出口清七、伊藤源兵衛、宍倉伊右衛門の諸氏が女学校の設置について申し立てて、明治8年(1875)7月に戸長濵修敬、勝田宣和が東京府庁に請願すると、東京府知事大久保一翁に申請し許可を受けることができました。
ちなみに、当時の東京府下では、明治8年(1875)6月、芝に桜川女学校が開設されるのみという状況だったのです。
柳北女学校設立
そして、明治9年(1876)1月に浅草区向柳原一丁目甲四番地に校舎建築の起工をし、5月には44坪二教室の木造二階建校舎が、工費八六八円を費やして完成します。
同年7月の校地測量、498坪5合2勺(地価747円19銭1厘)でしたが、学校設置費用はすべて公費負担としました。
そして、同年10月には、公立松前学校(育英小学校の前身)より分離しして、独立した女学校を開校、東京府庁より第五中学区第十四番公立小学柳北女学校と命名されたのです。
このときの教員4名、生徒95名。今井高子が教頭となり、校務を掌っています。
こうして東京府下で二番目の女学校として柳北小学校の歴史がはじまりました。
授業料
ちなみに、このころの授業料は月謝制で、学年及び親の年収などに応じて分かれています。
開学したころは、明治6年(1873)に制定された一等50銭、二等25銭、三等12銭5厘でした。
これが明治19年(1886)9月29日に改定されて、尋常科で30銭以上70銭以下、高等科で50銭以上1円以下と定めています。
当時の物価からするとかなりの高額ですが、府は学費補助の制度も作って、なんとか就学率をあげようとしたのです。(以上『浅草区誌』『台東区史(近代行政編)』『柳北百年』)
こうした努力もあって、柳北女学校に通う生徒数はどんどんと増えていくことになりました。
今回は、柳北小学校の前身である柳北女学校が生まれたころをみてきました。
次回は、生徒数が増えて男女共学となり新校舎が誕生するまでをみてみましょう。
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