前回は、和歌山藩政を掌握した忠央が行った政策の光と影をみてきました。
そして今回は、幕政にまで介入した忠央の転機となった大事件、桜田門外の変のころをみてみましょう。
一橋派と紀州派の対立
新宮水野家は、代々江戸定府で和歌山藩家老として采配を振るってきましたので、江戸での交際範囲は極めて広いものでした。
忠央はその力を使って、妹の広が12代将軍家慶のお部屋としたうえに、妹の睦(ちか)を13代将軍家定の側室とすることに成功、さらにその妹の遐(はる)も大奥に入れたのです。
こうして大奥とも強いパイプを作り上げた忠央ですが、さらにその名を知らしめることが起こります。
親交のあった近江国彦根藩主井伊直弼が、安政5年(1858)4月には大老に就任したのです。
ペリー来航以来続く難局の中で、病弱で子がなかった13代将軍家定の跡目をめぐって、激しい対立が起こっていました。
水戸藩主徳川斉昭を中心に聡明の聞こえ高い一橋慶喜を押す一橋派と、血統を重んじる紀州藩主徳川慶福(のちの家茂)を押す紀州派の対立が深まっていたのです。
ここで忠央は直弼とともに物量作戦を展開して紀州派支持を広げていきました。
両派の対立は、直弼の大老就任によって、直弼と忠央を中心とする紀州派が優位に立ち、6月には慶福が将軍の嗣子に決定されたのです。
そして翌7月に家定は亡くなりましたが、一橋派の策動により、朝廷は容易に将軍宣下を与えなかったのです。
これに対して直弼は反対勢力への大弾圧・安政の大獄を行って、ようやく14代将軍家茂の就任を実現させることができました。
この時には忠央も直弼を助けて暗躍し、吉田松陰は「水野は奸にして才あり、世頗る之を畏る」と警戒していたのです。
桜田門外の変
いっぽう、開国主義だった直弼は、安政5年(1858)6月、専断によって日米修好通商条約および安政五ヵ国条約を、勅許を得ることなく調印します。
安政の大獄では、これに反対する水戸派や攘夷志士らを大量に処罰しました。
これに激高した水戸浪士ら18名は、安政7年(1860)3月3日に江戸城桜田門外で大老井伊直弼を襲撃し、斬殺したのです。
これが名高き桜田門外の変で、これに連座して忠央は隠居謹慎を命ぜられて、新宮に幽閉されることになりました。
新宮時代の忠央
桜田門外の変により、万延元年(1860)6月4日に幕府の意向を受けて忠央は隠居して身を引きましたが、その精力的活動を止めることはありません。
忠央は、江戸在勤中から文教を奨励していましたが、儒者・国学者を自宅に招いて丹鶴叢書の編纂を手掛てきました。
忠央は自ら『丹鶴詠草』五冊を著しているように、国学へ大きな関心を持っていたのです。
そして国史、記録、故実、歌集、物語などめずらしい書籍や墨宝を集めて162冊にまとめ上げて、丹鶴叢書として世に出しました。
その一方で、西洋の兵制への関心も強く、オランダの兵書を翻訳したり、フランス式の軍事教練取り入れています。
産業の育成
忠央は江戸在勤時から引き続いて産業の育成にも尽力し、和紙の改良工夫、那智の銀竜焼、瓦の製造などをてがけたうえ、蝦夷地(北海道)を探査させることまでしています。
また、安政3年(1856)9月から洋式帆船の建造に取りかかり、新宮船町の川原に造船場を建造し、新宮鍛冶仲間36人を作業に従事させています。
のちに造船場は池田町に移して、安政5年(1858)9月に一之丹鶴丸を竣工、その後さらに二之丹鶴丸も建造しました。
このように、忠央は新宮鍛冶仲間の技術水準の高さを認識し、絶対の信頼を寄せていたのです。
忠央は、元治元年(1864)5月4日に謹慎を解かれましたが、翌慶応元年(1865)2月25日に新宮において52歳で没しました。
忠央の業績
ここまで新宮水野家9代忠央についてみてきました。
忠央は、熊野の産物から得た豊富な資金を使って中央権力との太いパイプを築き上げたのです。
また一方で、地域の産業を発展させるとともに、西洋の知識も積極的に導入して文武の振興を図っています。
そうした中で、文化的な成果が結実したのが丹鶴叢書で、これは水戸藩徳川光圀の『大日本史』、塙保己一の『群書類従』と並び称される偉大な業績でした。
また、熊野の技術の粋を集めたのが洋式帆船丹鶴丸の建造といってよいでしょう。
そこで次回は、第一・第二丹鶴丸について、もっと詳しく見てみましょう。
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