前回まで立花家の歴史をみてきました。
長い年月をかけて、柳川の美しい水郷の風景は出来上がっていったのです。
しかし、この美しい光景も、一時期は存亡の危機を迎えていました。
そこで最終回となる今回は、水郷柳川復活の物語をみていきたいと思います。
水郷柳川
かつて北原白秋は、故郷柳川の情景をこう詠いあげました。
「私の郷里柳河は水郷である。そうして静かな廃市の一つである。自然の風物は如何にも南国的であるが、既に柳河の街を貫通する数知れぬ溝渠のにおいには日に日に廃れてゆく旧い封建時代の白壁が今なお懐かしい影を映す。」(「生い立ちの記」『思ひ出』)
「水郷柳河はさながら水に浮いた灰色の柩である。」(同上)とも詠った水郷柳川は、戦国武将・田中吉政以来、長い年月のなかで作り上げてきたものなのです。
水郷柳川の危機
美しい水郷も、昭和52年には街の中の大半の堀割や水路が埋め立てることになり、消滅の危機を迎えます。
これは、飲用水を堀割に頼っていたものが水道の普及でその役目を終えたうえに、廃水をそのまま堀割に垂れ流す状態になっていたのが原因でした。
こうして水質汚染が続くこととなり、まもなく堀割はゴミ捨て場と化したのです。
こうしたわけで、建設省の補助を得て、主要水路をコンクリート三面張りの都市下水路とし、中小水路は全部埋め立てる計画がすすめられたのです。
水郷復活への道
この計画を推進する部署として、市役所に新設された環境課の課長となったのが、地元出身の広松伝(ひろまつ つたう)でした。
幼いころから親しんできた堀割に深い愛着を持つ広松は、着任とともに、本来の業務とは真逆の、堀割の保全を市長に直訴したというから驚きです。
そして広松は、堀割が果たす貯溜・遊水機能・地下水涵養の機能の重要性を説くとともに、掘割の再生案を作り上げて市役所内の関係者の説得にあたります。
そして昭和53年(1978)3月、ついに議会で掘割の浄化計画が認められ、水郷柳川復活への歩みがはじまりました。
住民参加
広松は堀割浄化にあたって三つの柱を建てました。
一つ目は荒廃した堀割を住民参加で「浚渫してきれいにする」こと。
二つ目は浚渫してきれいにした堀割を再び汚さないために「汚水の流入を抑止する」こと。
三つ目は「住民参加による維持管理」、とくにこれを最も重視しました。
広松は手はじめに市の中心部を選び、町内懇談会をこまめに開催するとともに、住民現地見学会をセットで開いて、住民と問題意識や目的を共有することに勤めます。
そのかいあって、住民参加の直営で浚渫が行われて、ついに最初の一本の川が流れはじめたのです。
堀割の復活
ついに一本の川が流れはじめると、驚いたことに次々と住民たちが積極的に堀割浄化に取り組みはじめます。
復活した川をみて、住民たちが堀割とともにあったかつての暮らしを思い起こし、それを取り返したいと望むようになったのです。
広松の取り組みは市域全土に広がって、ついに水郷は復活を遂げました。
『柳川堀割物語』
こうして広松の働きかけをきっかけに、柳川の住民がすすんで協力して水郷柳川は復活しました。
今では掘割のある暮らしを取り戻した柳川に、多くの観光客が訪れることになります。
それにとどまらず、水辺のある暮らしは潤いを取り戻し、地域住民の結びつきをも復活させて、地域全体の復興にまで発展したのです。
そんなとき、作品の舞台にしようとアニメーション作家の高畑勲が柳川を訪れます。
広松と出会い、街の姿をみた高畑は、この奇跡ともいえる水郷復活劇を広く世に知らしめるために記録映画作成を決意します。
こうして第1回でみた『柳川掘割物語』が誕生しました。
映画には、掘割とともにある豊かな暮らしとともに、その成立過程やシステム全体をわかりやすく説明しています。
なかでも高畑が特に力を入れたのが、広松と柳川の住民による堀割復活の物語でした。
そのなかで私は、現在失われつつある人間と自然、さらには人間同士の縁を復活させるヒントを見た思いでしたので、この物語が人間性復活への希望の物語に思えたのです。
おそらく私は高畑監督にかつてお出会いした時、こう聞きたかったのだと思います。
「監督は『柳川掘割物語』で、人間性を取り戻す希望の物語を描きたかったのですね。」
柳川には、これからの時代を生きる人間にとって、とても大切なヒントがあるのだと強く確信したのでした。
《今回の内容は、『ミミズと河童のよみがえり』と映画『柳川掘割物語』にもとづいて執筆しました。》
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
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「八月廿四日 柳川藩届書冩四通」『太政官日誌 慶応四年戊辰秋八月 第66』(太政官、1876)
「九月二日薩摩藩届書写」『太政官日誌 慶応四年戊辰秋九月 第76号』(太政官、1876)
「彦根藩届書写四通追録」『太政官日誌 慶応四年戊辰秋九月 第82号』(太政官、1876)
「九月十七日薩摩藩届書写二通」『太政官日誌 慶応四年戊辰秋九月 第90』(太政官、1876)
「九月廿三日 大村藩届書写」『太政官日誌 慶応四年戊辰秋九月 第93』(太政官、1876)
「九月廿三日下手渡藩届書写」『太政官日誌 慶応四年戊辰秋九月 第94』(太政官、1876)
「柳河藩届書冩」『太政官日誌 明治紀元戊辰冬十月 第110』(太政官、1876)
「柳川藩届書」(「軍務官箱館征討合記 第六 追録」)『太政官日誌 明治二年 第75 六月三十日』(太政官、1876)
『内外果樹便覧 附・有用植物略説』立花寛治 編集・発行(1891・1893・1897・1903)
『穀菜栽培便覧』立花寛治 編集・発行(1891・1893・1895・1899)
『日本戦史 関原役』参謀本部 編(元真社、1893)
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『立花朝鮮記』(『史籍集覧』第十三巻(改定版))近藤瓶城 編(近藤出版部、1902)
『全国篤農家列伝』愛知県農会(林忠太郎、1910)
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『安東省庵』安東省庵記念会 編(安東省庵記念会事務所、1913)
『立花家農事試験場事蹟』立花家農事試験場 編集・発行、1918
『学制五十年史』文部省、1922
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『華族名簿 昭和15年5月20日調』華族会館、1940
『華族名簿 昭和18年7月1日現在』華族会館、1943
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『議会制度七十年史 第1 貴族院議員名鑑』衆議院・参議院編(大蔵省印刷局(印刷)、1960
『原色果実図鑑』久保敏夫(保育社、1962)
「北原白秋」木俣修/「檀一雄」石川弘『日本近代文学大事典』第一・二巻、日本近代文学館・小田切進 編(講談社、1977)
「じじばばの花」「不思議なデビュー」『檀一雄全集』第八巻、新潮社、1978
「北原白秋」河村政敏/「島村速雄」野村実/「立花寛治」伝田功/「立花宗茂」木村忠夫/「立花宗茂朝鮮記」北島万次/「田中吉政」木村忠夫/「津田仙」牛山敬二/「蜜柑」志村勲/「三田種育場」牛山敬二『国史大辞典』国史大辞典編集委員会 編(吉川弘文館、1979~1997)
『思ひ出』『北原白秋全集 第1巻』北原白秋(岩波書店、1984)
「生い立ちの記」『思ひ出』『北原白秋全集 第2巻』北原白秋(岩波書店、1985)
『三百藩主人名事典』第一巻/第四巻、藩主人名事典編纂委員会、1986
『ミミズと河童のよみがえり 柳川堀割から水を考える』河合ブックレット13、広松伝(河合文化教育研究所、1987)
『角川日本地名大辞典 40福岡県』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1988)
『園芸植物大事典』第4巻、相賀徹夫編(小学館、1989)
『三百藩家臣人名事典』第7巻、家臣人名事典編纂委員会 編(新人物往来社、1989)
『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館華族家系大成編輯委員会編(㈳霞会館・吉川弘文館、1997)
『福岡県の歴史』川添昭二・武末純一ほか(山川出版社、1997)
『近世藩制・藩校大事典』大石学 編(吉川弘文館、2006)
『戊辰戦争』戦争の日本史18、保谷徹(吉川弘文館、2007)
『江戸時代全大名家事典』工藤寛正 編(東京堂出版、2008)
『藩史大事典 第7巻九州編〔新装版〕』木村礎・藤野保・村上直 編(雄山閣、2015)
『改訂新版 戊辰戦争全史』上・下、菊池明・伊東成郎 編(戎光祥出版、2018)
柳川市・柳川市観光協会Webサイト
参考文献:
『作家の自叙伝27 北原白秋』北原白秋 著、佐伯彰一・松本健一 監修(日本図書センター、1995)
『作家の自叙伝70 檀一雄』檀一雄 著、佐伯彰一・松本健一 監修(日本図書センター、1998)
『《図録》生誕100年 檀一雄展』檀太郎・眞鍋呉夫 監修、公益財団法人練馬区文化振興協会 山城恵子 編(公益財団法人練馬区文化振興協会、2012)
次回は、柳川藩上屋敷跡を歩いてみましょう。
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