前回は田中家が改易されるまでをみてきました。
そこで今回は、田中家が柳川に残した大きな遺産をみてみましょう。
「水郷柳川」の誕生
柳川付近は、第2回「柳川ってどんなところ?」でみたように、筑後川と矢部川が形成した三角州が複合した地形で、総じて低湿なところでした。
これに大きく手を加えて、現在見るような堀割が網の目のように走る水郷を作り上げたのが、田中吉政でした。
それよりも前の立花宗茂治下、天正15年(1587)ころに農業用水を確保するために矢部川から分流して、半人工運河の花宗川の開発に着手したと伝えられています。
吉政はさらにそれを推し進めて、慶長9年(1604)久留米瀬の下に筑後川に通ずる新川・花宗川を完成させて舟運と用水の便を計ったのです。
またさらに、この年に安武堤防の工事に着手しています。
さらに慶長10年(1605)には、三瀦郡佐入堰を作るなど、吉政は在任中に筑後川・矢部川の流域改修、道路の新設・変更、諸村の開拓奨励などを行いました。
田中道と干拓事業
これに加えて、山門郡矢ケ部村から久留米に通ずる街道を開きましたが、これは田中道と呼ばれる主要幹線道路となったのです。
吉政は、この田中道をはじめ、領内の陸上交通網も積極的に整備しました。
またこれと同時に、三瀦郡の古賀村・浜武村や山門郡の有明海沿岸を干拓して数ヶ村を開いています。
これにともなって、大川から柳川・大和・三池郡渡瀬までの有明海沿岸32㎞におよぶ慶長本土居の築堤工事も行って、干拓地を海波から保護したのです。
忠政の干拓事業
有明海の干拓事業は、吉政の跡を継いだ忠政の代にも続けられます。
慶長15年(1610)、開拓村道海島を開くことに成功すると、さらに元和2年(1616)大野島村、翌元和3年(1617)浮島村と次々と干拓地を開くことになりました。
じつは干拓事業は有明海の干潟を埋め立てればできるという簡単なものではありません。
堀割を巡らし盛土することで、土地をかさ上げして乾燥化させることはできるものの、今度は用水が不足するのです。
堀割の役割
ここで生きてくるのが網の目のように走る堀割群。
堀割は、水運機能はもちろん、実に様々な役割を担うことになりました。
排水と水運機能はもちろんのこと、柳川城下への上水となり、灌漑用水を溜めておく貯水機能、川の氾濫を抑える洪水調整機能など、地域になくてはならない役割を果たしたのです。
さらに近年、土壌中の水分が極めて多い柳川付近では、これを適切に調整して地盤を支持する機能もあることもわかってきました。
こうしてみると、田中吉政が築き上げた水郷のシステムが、その後の柳川発展の基礎となっているのがよくわかります。
田中氏と柳川
ここまでみてきたように、田中氏が柳川を収めた時期は長くはありませんでしたが、水郷柳川を築き、城上町を整備し、水運のみならず陸上交通も整備したうえに、干拓事業もおこなわれました。
これは私の私見ですが、柳川で生かされた吉政の国造りの技術は、近江で培われたものではないかとにらんでいます。
かつて吉政が関白秀次に仕えていたのを覚えておられるでしょうか。
秀次は本拠を近江八幡におきましたが、その城下町造営を吉政が行っていたのです。
その時に、八幡堀を中心とする水路網と、朝鮮人街道という直線道路による陸上交通網を整備しました。
これらの経験に、三河時代に用水路建設にたずさわったことが加わって、有能な土木技術者集団を保有したことが吉政の活躍を支えていたとみています。
こうして、内政のスペシャリストであった田中吉政は、もてる力のすべてを投入し、心血を注いで「水郷柳川」を作り上げたのです。
しかし、それがようやく完成しようかというタイミングで、世嗣断絶のために田中氏は改易されました。
こうして田中氏が築き上げた遺産を、柳川に復帰した立花家が受け継ぐこととなったのです。
次回では、柳川に復帰した立花宗茂と、その跡を継いだ二代忠茂の時代をみてみましょう。
《田中吉政と忠政の記事は、『福岡県史』『旧柳川藩誌』『福岡県の歴史』『三百藩藩主人名事典』『江戸時代全大名家事典』『国史大辞典』にもとづいて執筆しました。》
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