前回まで新宮と熊野の土地柄についてみてきました。
今回からは、新宮水野氏の歴史に戻って、九代忠央の時代をみてみましょう。
水野忠央(みずの ただなか・1814~1865)
忠央は、和歌山藩の家老として、十一代藩主徳川斉順、十二代斉彊、十三代慶福、十四代茂承と四代にわたって仕えました。
文化11年(1814)、新宮水野家八代水野忠啓を父に、松平伯耆守宗発養女を母に武蔵国で生まれ、幼名は鍵吉、または藤四郎です。
文政13年(1830)10月1日に、父忠啓に同道し江戸城において将軍家斉にはじめて拝謁し、12月16日に従五位下土佐守に叙任されました。
天保6年(1835)8月16日に、父が病気を理由に隠居したため、22歳の若さで家督を相続しています。
新宮水野家の経済力
第15回「熊野材」でみたように、熊野材と備長炭という特産物を持つ新宮領は、経済的に豊かでした。
これに加えて、忠央は敷屋の音無紙、那智の銀竜焼、瓦の製造、櫨の栽培と木蝋の生産などに力を入れて、自領内の経済力を大いに高めていきました。
このため、3万5,000石とされた新宮領が、実質10万石以上とみられるまでになったのです。
忠央はのちにこの経済力を背景として、和歌山藩のみならず、中央政界とも強い結びつきを築き上げていくことになります。
徳川治宝
紀州徳川家十代藩主・徳川治宝(はるとみ)は、藩財政が苦境となる中、強いリーダーシップを発揮して藩政改革を行いました。
これまでの門閥政治を改めて有能な中流藩士を抜擢するとともに、藩中に厳しい倹約令を発するとともに、男山焼きをはじめとする殖産興業策を採ります。
また、貧民救済をかねた土木工事を盛んに行って、地域開発を積極的に行ったのです。
文政6年(1823)の大干ばつをきっかけに、かつてない大規模の文政一揆が起こると、その責任を感じた治宝は隠居しました。
しかし治宝は53歳で隠居して西浜御殿にひいたものの、あいかわらず藩の実権は握ったままだったのです。
和歌山藩和歌山派
治宝とともに藩政改革に取り組んだ山中筑後守、伊達千広、渥美源五郎や、三山貸付所の玉置縫殿たち、いわゆる和歌山派が藩の政治権力を握ることになります。
とくに、本宮社家出身の玉置縫殿は、熊野三山修復の名目金に諸国で富くじ興行や配札を行って収益を上げると、江戸紀州藩邸に三山貸付所を設けてこれを牛耳りました。
こうして玉置は、紀州徳川家と治宝の権威を背景にして、有力大名・大社寺・商人などに融資して金利を稼ぎ、莫大な利益を上げていたのです。
ここまで新宮水野家九代忠央が急速に力をつけていくまでを見てきました。
次回は、忠央が歴史の表舞台に躍り出るところを見てみましょう。
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