水野男爵家の終焉【紀伊国新宮水野家(和歌山県)51】

前回は危機のなかで水野男爵家を継いだ忠武についてみてきました。

今回は、水野男爵家の終焉についてみていきましょう。

忠武の邸宅

前回みた新聞記事に、白川とあったように、忠武は京都の白川に住んでいました。

『華族名簿 昭和4年5月31日調』(華族会館、1929)によると、京都市左京区岡崎法勝寺町93ノ9の高級住宅地に邸宅をかまえていたのです。

水野男爵家京都法勝寺邸跡付近、昭和21年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-R275-A-7-102〔部分〕)の画像。
【水野男爵家京都法勝寺邸跡付近、昭和21年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-R275-A-7-102〔部分〕) 左上に見えるのが平安神宮で、琵琶湖疎水が横切っているのがみえます。法勝寺町は画面中央付近の緑の多い邸宅街でした。】

その後、昭和14年(1939)ころに『華族名簿 昭和14年5月1日調』、『人事興信録 第12版(昭和14年)』によると、京都市上京区平野八丁柳町62ノ1に移り、そのまま終戦を迎えているようです。

水野男爵家平野八丁柳町邸跡、昭和21年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-R275-A-7-61〔部分〕)の画像。
【水野男爵家平野八丁柳町邸跡、昭和21年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-R275-A-7-61〔部分〕) 平野八丁柳町は、平野神社(画面右)と等持院と立命館大学(画面左)の間にある町で、当時は田畑も残る京都北方の静かな場所でした。】

忠武の子どもたち

忠武は児玉幾太郎長女文子と婚姻するも離縁し、寺川長松長女クリエ(のちに眞佐子に改名)を継室に迎えます。

また、忠武は3男2女に恵まれました。

長男の誠は、明治43年(1910)2月生まれで、京都大学に進学し、在学中に出征し、そのまま卒業して陸軍少尉となっています。

長女の芳子は明治44年(1911)5月生まれ、島根県人熊野秀福に嫁ぎました。

また、田鶴子は大正5年(1916)9月生まれ、京都府立第一高女を卒業しています。(『人事興信録 第14版』)

『平成新修旧華族家系大成』によると、子どもたちはいずれも一般家庭の子女と結婚したとみられます。

「昭和初めの京都市街」(『京都』京都市編(京都市、1929)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「昭和初めの京都市街」『京都』京都市編(京都市、1929)国立国会図書館デジタルコレクション 水野忠武一家が暮らしていた頃の京都です。】

また、先々代忠幹の事業失敗により家財が大幅に減少したうえに、先代重吉が華族どうしの付き合いを控えていた影響か、婚姻関係に華族が少ない印象を受けます。

これは、水野男爵家が京都に移ったことで、他の華族との付き合いが減ったことが影響しているのでしょう。

こうして明治から昭和までの激動の時代を潜り抜けた忠武は、終戦後まもない昭和20年(1945)9月10日に60歳で亡くなりました。

水野誠

誠は明治42年(1909)2月7日、忠武の長男として生まれました。

その後、京都帝国大学に入学し、在学中に出征して陸軍少尉となります。

そのまま卒業後も陸軍に在籍するも、ほどなく終戦により除籍となりました。

京都帝国大学在学中の昭和16年(1941)ころに新谷重吉四女のたか(『平成新修旧華族家系大成』では多可子)と婚姻しています。(『人事興信録 第13版』)

「京都帝国大学」『京都』京都市編(京都市、1929)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「京都帝国大学」『京都』京都市編(京都市、1929)国立国会図書館デジタルコレクション) 昭和初めの水野誠の母校、京都帝国大学】

水野男爵家の終焉

終戦直後に父・忠武が亡くなり、長男の誠が家督を継ぎました。

しかし襲爵はせず、そのまま昭和23年(1948)の華族制廃止により水野男爵家は廃爵となったのです。

戦後、水野誠は新三菱重工に就職し、財務課長を務めるかたわら、政府の税制調査会専門調査員に任命されています。(朝日新聞・昭和34年(1959)6月16日付朝刊・財政欄)

その後は日本金属工業に移り、顧問(常務)に就くなど、経済界で活躍しています。(朝日新聞・昭和44年(1969)4月24日付朝刊・企業欄会社人事)

こうして、水野男爵家は廃爵となりました。

ところで、水野家が去ったあとの新宮はどうなったのでしょうか。

次回は、新宮に大きな傷を残した大事件、大逆事件をみてみましょう。

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