前回、水野忠幹が事業に失敗して多くの財産を失うところをみてきました。
今回は東京の町を転々とする忠幹の暮らしぶりをみてみましょう。
蛎殻町時代
明治10年(1877)ころまでに事業に失敗した忠幹は、深川三好町の店舗と屋敷を処分せざるを得ませんでした。
あるいは負債があったのか、忠幹の住所は定まらず、明治11年(1878)ころには日本橋区蠣殻町3丁目1番地、現在の中央区日本橋蛎殻町2丁目ロイヤルパークホテル内に移っています。(『改正華族銘鑑』長谷川竹葉編(青山堂、明治11年7月)1878)
この場所は、文政12年(1829)から明治3年(1870)まで、紀州徳川家和歌山藩の下屋敷のあった場所。
屋敷は2,000坪と、紀州徳川家にしては小ぶりでしたが、おそらく忠幹が付家老を務めていた頃に見知った場所だったとみられます。
もちろん、忠幹の屋敷は紀州藩邸よりもかなり小ぶりだったのはいうまでもありません。
平河町時代、水野男爵家誕生
そしてさらに、明治13年(1880)ころには東京麹町区麹町平河町六丁目九番地、現在の千代田区平河町2丁目千代田区立麹町中学校グランド付近に移っています。(『華族諸家伝 上巻』鈴木真年(杉剛英、明治13年)1880)
水野男爵家平河町邸跡(千代田区立麹町中学校グランド) 道向かいの紀州徳川家赤坂藩邸跡に建つ旧李王家邸
この平河町時代の明治17年(1884)7月7日には華族令により、忠幹は男爵を叙爵するとともに、錦鶏間祗侯や宮中祗候浜芝両離宮吹上御苑各勤番などに任ぜられています。(『人事興信録 3版(明治44年4月刊)』)
じつはこの麹町平河町の邸宅は、諏訪坂の通りをはさんだ向かいがかつての紀州徳川家赤坂藩邸で、忠幹が付家老として務めた場所だったのです。
この当時もっとも人気の高かった建築家・コンドルの設計したレンガつくりの北白川宮邸が威容を誇っていました。
しかしこの麹町平河町の屋敷も、わずか10年たらずで引き払っています。(『華族部類名鑑』安田虎男 編(栄文堂、1883))
水野男爵家亀島町邸跡西から 水野男爵家亀島町邸跡付近から東の霊巌島を望む
亀島町時代
その後、忠幹は明治20年(1887)には日本橋区亀島町1丁目41番地、現在の中央区日本橋茅場町2丁目11番地付近に移っています。(『華族名鑑 新調更正』彦根正三(博公書院、1887))
この場所の近くには、かつて伊能忠敬の屋敷があり、そこに地図御用所が置かれていました。
つまり、伊能図誕生の地でもあり、また忠敬が亡くなった場所でもあった場所です。
この亀島町に住んだ期間もわずか6年ほどでした。(『華族名鑑 更新調正』彦根正三(博行書院、1893)・『華族鑑:新刻』青山長格編(海老原兼太郎、1894))
また、亀島町時代のエピソードが明治24年(1891)3月1日付け朝日新聞に掲載されています。
記事のタイトルは「華族の奥方、油絵をものにする、高橋由一に師事」。
この記事でいう華族の奥方とは、忠幹の3人目の妻・釥子(しょうこ)夫人のこと。
釥子夫人は三河国田原藩主・三宅康直の四女で、嘉永3年(1850)1月21日生まれ。
高橋由一が実父・康直を描いた作品も残されており、親交が深かったようです。
ところで、釥子夫人の絵の腕前はというと、「最も得意とさるゝハ「花瓶置物」の類にて是等の出来ハ實に見る人として驚嘆せしむるまでのおん腕前なりといふ」(朝日新聞東京版朝刊明治24年(1891)3月1日付 美術欄)。
また、朝日新聞明治26年(1893)8月11日には、義父三宅康直の死亡広告を親戚筋の酒井忠彰子爵らとともに、大きく掲載しています。(朝日新聞東京版朝刊明治26年(1893)8月11日付 社会欄)
これらのことからみて、このころの水野男爵家には経済的な余裕が感じられることから、暮らしの立て直しに成功したのかもしれません。
そして、日本橋区浜町2丁目17番地(『華族名鑑』博文館、1894)、現在の中央区日本橋浜町2丁目西南部にも一時期ですが住んでいます。
水野男爵家浜町邸付近から南の島津公爵邸跡を望む 水野男爵家浜町邸付近と浜町川跡
この場所は、かつて新宮水野家の私邸があった場所で、忠幹が事業を始めるにあたって久松伯爵家に売却した土地の一角です。
忠幹にとってなじみのある場所だったわけですが、かつての私邸に比べると、はるかに小規模となっているのはいうまでもありません。
今回は東京の町を転々と移る忠幹の暮らしぶりをみてきました。
ゆかりのある場所を転々とする姿は、かつての栄華を追憶しているようにも思えてきます。
次回は、忠幹の死の前後をみていきましょう。
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