前回、危機の中で五島盛德(1840~1875)が藩主に就くまでをみてきました。
これから五島藩は、幕末の動乱をどのように超えてゆくのでしょうか。
今回は少し時代をさかのぼって、五島盛成治世下の石田城建設からみていきたいと思います。
尊王攘夷思想の高まり
話は盛徳の先代、盛成の治世にさかのぼります。
前に、フェートン号事件が起こると五島藩内でも攘夷思想が強まったことは覚えておられるでしょうか。(第33回「フェートン号事件の衝撃」)
事件の結果、異国船来航が続く中、尊王攘夷思想は藩士にとどまらず、領内全体にまで広がっていきました。
全領民総動員体制の導入
これをうけて、五島藩においても海岸防備の強化を急ぐことになるのですが、いかんせん小藩ではその対応にも限度があるのはやむを得ないところでしょう。
そこで、藩主盛成は郷士や農漁民にも防備体制に加わることを要請したのです。
弘化2年(1845)には、鎌と熊手を各自に用意させて農兵の武器としました。
さらに、嘉永元年(1848)には大浜において操練、つまり軍事訓練を行いっています。
いっぽうで、弘化3年(1846)には家臣の禄制改革を行って知行地を削減してそれを藩財政に繰り入れることで、藩財政の強化を図り、財政面からも新体制を支える仕組みを整えたのでした。
【グーグルストリートビューは、五島市の石田城跡】
石田城築造
また、嘉永2年(1849)異国船がしきりに近海を通行する状況を受けて、あらためて五島藩主盛成は石田城の築城を幕府に嘆願したのです。
前に見たとおり、五島藩は盛運が異国船防備を理由に、築城を願い出るも不許可。
さらに、盛繁が文化5年(1808)長崎でフェートン号事件が起きて海防の必要性が増したことを理由に文政3年(1820)12月に築城許可を嘆願してきましたが、この時も不許可認でした。
しかし、なんと今回は幕府から許可が下りたのです。
この時期の築城許可は極めて異例のことですが、異国船からの海岸防備は幕府も必要を痛感していましたのでしょう。
同年7月7日に幕府の許可を受けると、はやくもその一か月後の8月15日に造営を開始するというスピード対応でした。
というのも、海岸線防備の必要性を痛感したのはもちろんですが、慶長19年(1614)8月15日に居城の福江・江川城が原因不明の火災によって全焼して以来、五島藩は城を持たないままでしたから、城持ちになるのは「御家の悲願」でもあったのです。(第17回「五島盛利登場」参照)
築城工事
五島藩は、幕府から許可が出た直後の嘉永2年(1849)8月15日から築城にかかります。
そして、15年の歳月と工費2万両、人夫5万人を投入して文久3年(1863)6月に石田城が完成しました。
石田城は城の三方を海に囲まれた海城で、わが国で最も新しい、また最後となる海城でした。
この城は異国船に対する海岸防備の拠点となる城でしたので、費用の一部約1万両は幕府が貸し付けるとともに、富江領から100両と人夫のべ5,000人の援助を受けています。
「最後の海城」石田城
この城は、築いた場所・石田浜にちなんで石田城、あるいは町の名から福江城と呼ばれることとなります。
城は全体が三角形に近い形で、東西およそ194間、南北172間、面積およそ一万六千坪の規模を誇っていました。
城はかつて五島盛利が唐津藩主寺沢広高の設計指導で築いた石田陣屋を改築することとして、設計津山藩正木兵部、築城監督青木晋陽・藤原久与、大工は江戸の斉藤安五郎が担当しています。
城の内堀、外堀ともに全面に石垣を巡らせて、各郭の隅の要所には石火矢台が設けられるという、小藩には不釣り合いなほどの高い防御性を備えた海城です。
福江港の要塞化
築城に先立って、福江の河口では船の出入りが困難であることから、丸木を起点として防波堤を造り、その先端に常夜灯を設置するなどの港湾整備をおこなっています。
この工事は築城を円滑に進めるためとされていますが、ひょっとすると福江港の要塞化を目指していたのかもしれません。
今回、「最後の海城」福田城を築いて海岸防備を強化する五島藩をみてきました。
そして慶応2年(1866)に坂本龍馬が来島します。
龍馬はなぜ五島へ来たのでしょうか?
そして龍馬が見た五島はどんな姿だったのでしょうか?
次回は、龍馬来島の謎に迫っていきたいと思います。
《今回の文章は、『物語藩史』『日本地名大辞典』『海の国の記憶』に基づいて作成しています。》
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