前回は、朝鮮出兵で海を渡った宗茂をみてきました。
そこで今回は文禄の役最大の激戦、碧蹄館の戦いの宗茂をみてみましょう。
碧蹄館の戦い
文禄2年(1593)1月26日決戦の日の早朝、宗茂は明・朝鮮軍先鋒の進撃を予測して陣をはります。
そこへ予想通り、査大受率いる明軍先鋒2,000が進撃してきましたので、これに寡兵の策と釣り野伏戦法を仕掛けて撃破しました。
さらに、後詰の高彦伯率いる朝鮮軍数千に奇襲を仕掛けると、朝鮮軍はたまらず撤退を開始します。
宗茂はつづけて、撤退する査大受と高彦伯の軍を猛烈に追撃し、敵陣深くに入り込んだのです。
するとここで明軍7,000に遭遇、逆に宗茂軍は包囲されてしまいました。
十時連久・内田統続・天野貞成(のちの安田国継)らは明・朝鮮軍の中央を回転しながら突破に成功。
さたに明・朝鮮軍の反撃をみごとに撃退したうえ、さらに追撃まで加えたのです。
こうして歴史に名高い碧蹄館は、立花・高橋軍の奮闘で明・朝鮮軍の先鋒が崩壊することとなり、日本軍優位で決戦ははじまりました。
しかし立花軍も十時連久、池辺永晟などの戦死者を出すという大きなダメージを負っていたのです。
立花・高橋軍は、先鋒大将小早川隆景軍と入れ替わって後方で休息せざるをえませんでした。
大乱戦
その後、10時ころには明軍前衛が高陽原に押し出して反撃を開始すると、なんとこれを読んでいた小早川隆景は先鋒隊2万を使って釣り野伏を仕掛けます。
まず隆景は全軍を碧蹄館南面の望客硯に伏せました。
そして左方を立花・高橋隊と吉川広家、右方を宇喜多秀家と毛利秀包、毛利元康、筑紫広門という布陣で三方包囲策をとったのです。
正面の隆景軍のうち、粟屋景雄隊が明軍に当たるものの、支えきれず後退すると、すかさず明軍はこれを追撃します。
これをみて、隆景軍の井上景貞隊が側背面から奇襲をかけたからたまりません。
こうして明軍は大混乱となったところを見計らって、埋伏していた日本軍が左右から攻撃をしかけます。
すると、明軍前衛は大混乱に陥って崩壊、無秩序に撤退して碧蹄館の北に布陣していた李如松本隊を巻き込み、大乱戦となったのです。
明軍潰走
激戦の中、正午ごろには立花軍の安東常久が明軍大将・李如松と一騎討することに。
ここで助けに入った射撃の名手・李如梅の矢で常久は戦死、李如松も落馬してケガを負ったのでした。
さらに、救援に来た明軍副総兵・楊元率いる火軍も宇喜多軍に迎撃されて、明・朝鮮軍の混乱は収まりません。
こうして窮地に立つ明・朝鮮軍は、丘に囲まれた狭隘地で身動きもままならないなか、三方から猛攻を加えられて、午後1時ころ潰走をはじめます。(『立花朝鮮記』)
追撃
退却する明軍を、日本軍は北方の峠、恵陰嶺まで追撃、午後4時ころにようやく引き上げました。
そんななか、宗茂はさらに北方の虎尾里まで追討しますが、午後5時までに漢城へ引き上げています。
こうして明・朝鮮軍と日本軍の一大決戦となった碧蹄館の戦いは、宗茂・統増兄弟の奮闘をきっかけに、日本軍の大勝利に終わりました。
とはいえ、日本軍の犠牲も大きく、立花軍だけでも緒戦の十時連久、池辺永晟のほか、小野武幸、小串成重、小野久八郎、一門の戸次鎮林と、多くの家臣を失っています。
3月20日に、漢城付近に駐留中の日本軍を点検した際には、宗茂・統増兄弟の率いる兵は1,132人と、渡航時の3,000人とくらべて半分以下にまでなる消耗ぶりだったのです。
こうして宗茂たちの活躍で、碧蹄館の戦いは日本軍の勝利に終わりました。
しかし、朝鮮出兵はまだまだ終わりません。
そこで次回は、碧蹄館の戦い後の宗茂をみてみましょう。
《碧蹄館の戦いについては、『立花朝鮮記』『日本戦史 朝鮮役』をもとに執筆しました。》
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