前回、信長死後の後継争いで、柴田勝家を破って秀吉が越前を支配するまでみてきました。
そこで今回は、秀吉時代の越前の様子をみてみましょう。
秀吉時代の越前
柴田勝家を滅ぼした秀吉は、丹羽長秀を若狭・近江二郡から越前・加賀半国を与えて北庄城主とし、勝山に成田重政を置きます。
これ以後、越前は領主が目まぐるしく変わりますので、それを順にみてみましょう。
天正13年(1585)に丹羽長秀が死去すると、いったん嫡男の長重が継ぎますが、すぐに若狭へ国替えとします。
堀秀政の越前入封
このあとに近江国佐和山城から堀秀政がはいるものの、秀政は天正18年(1590)に死去してしまい、嫡男の秀治がこれを継ぎました。
秀治は慶長3年4月に越後国春日山(現在の新潟県上越市)43万石に移封されます。(飯田藩堀家編「飯田の町と堀家の歴史」参照)
堀家のあとに小早川秀秋が入封するものの九州へと移って、その後に青木一矩が入りました。
そのあと東郷(福井市)に長谷川秀一、府中には木村隼人、青木一矩を経て堀尾可晴が入ります。
そして、慶長5年(1600)9月時点で、越前には10の大名が置かれて細分された状態になっていたのです。
秀吉時代の勝山
ここまでみてきたように、秀吉時代の越前は領主が激しく変わっていきますが、勝山もその影響を大きく受けました。
勝山城主は、丹羽長秀の家臣成田重政ののち、大野城主青木一矩、北庄城主堀秀治、そしてふたたび青木一矩、さらに織田秀雄と、目まぐるしく変わっています。
関ケ原の合戦
慶長5年(1600)会津上杉景勝が不穏な動きを見せる中、その上洛遅延をとがめて、徳川家康は6月16日に大坂城西丸を出立し、7月24日に下野国小山に着陣しました。
ここで石田三成が畿内や西国の諸将と語らって家康打倒の兵を挙げた一報が伝わります。
そこで、家康は二男・結城秀康を徳川方の総大将に任じて、関東にとどまって上杉景勝の南下を阻止するよう命じたのです。
そして9月15日、天下分け目の関ケ原の合戦で、東軍勝利となったのは皆さんもご存じでしょう。
関ケ原以後
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦では、ほとんどの大名が西軍についたので、取り潰しとなりました。
越前で西軍について取り潰されたのは以下の諸氏です。
織田秀雄・大野5万石、丹羽長正・東郷5万石、大谷吉継・敦賀5万石、青山忠元・丸岡4万6千石、戸田重政・安居1万石、木下頼嗣2万5千石、赤座直保2万石、奥山正之1万1千石、上田重安1万石、服部正栄1万石。
また、北庄の青木一矩は『福井県史』では東軍としているものの、西軍とみる資料が多く、やはり取り潰しとなっています。
こうして越前国の領主のほとんどが改易されて、「空き」となっていました。
そこで、関ケ原の合戦には参加しなかったものの、宇都宮留守役の功績が認められて、家康の二男・結城秀康に越前一国が与えられたのです。
今回は秀吉時代の越前をみてきました。
次回は、関ケ原の合戦後に越前の領主となった結城秀康の時代をみてみましょう。
《今回の記事は、『福井県史』『福井県の歴史』に基づいて執筆しています。》
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