前回、二宮尊徳の仕法と中村勧農衛の努力で、ようやく出口が見えてきた谷田部藩の危機。
そして時代はいよいよ激動の幕末へと向かいます。
今回は谷田部藩(茂木藩)の幕末・維新を見ていきましょう。
九代・興貫(おきぬき:1832~1907)
興建から家督を継いで九代藩主となった興貫ですが、襲封翌年の嘉永6年(1853)にペリーが艦隊を率いて浦賀に来航し、時代は幕末へと突入したのです。
国中に尊王攘夷の嵐が吹き荒れる中でも、早くから関東の外様、しかも小藩である谷田部藩は大勢順応と決めていたので、藩論が割れることもありませんでした。
これは、あまりにも莫大な借金があるうえに領内の荒廃が激しかったので、現実対応がなにより優先された結果、議論自体が盛り上がらなかったということなのでしょう。
しかし、隣の水戸藩が激しい対立の結果多くの人材が失われたことを考えると、ひどい貧乏も悪くなかったのかもしれません。
幕末の動乱
安政2年(1855)には先述の江戸安政地震があり江戸の下屋敷が倒壊、文久2年(1862)2月には茂木領横町・大町で大火があるなどの災害が続きますが、その一方で文久2年(1862)11月には文久の改革で参勤交代が緩和されて夏中在府となって、藩政改革に注力できる状況になりました。
翌文久3年(1863)には坂下門外の変で実行犯の一味だった横田昌綱を捕縛して江戸へ送り(のち江戸小伝馬町で獄死)(『芳賀勤皇志士伝』)、元治元年(1864)4月には水戸に端を発した天狗党の一軍が日光東照宮を襲う恐れがあるため、幕府から御警護向相心得を仰せ付けられて日光に出兵するなど、幕府の意向に従順だったのです。
しかし慶應3年(1867)3月には兵制を改正、イギリス式を採用していますし(『藩史大事典』)、10月に上京を命じられた時には藩主の興貫が持病の痔疾が再発したとして断っています。(『三百藩藩主人名事典』)
なかなかしたたかな対応ですが、これも借金で心が鍛えられたからなのでしょうか。
大政奉還と谷田部藩
そして大政奉還によって大勢が判明すると、谷田部藩は態度を一変させたのです。
慶應4年(1868)3月、新政府から上京の命を受けると、興貫自ら藩兵119名を率いて上京して京都警衛にあたりました。
いっぽう、上野戦争で敗れて会津へ脱出する彰義隊と旧幕府軍に対して、茂木領の藩兵が烏山・宇都宮両藩兵とともに追撃して戦功をたてています。(『江戸時代全大名家事典』)
その後、谷田部に戻った興貫は、新政府の要請に従って慶應4年9月に会津を目指して出兵しましたが、10月13日ころ、下野国今市まで進軍したところで会津城が開城して会津戦争が終結したため、そのまま谷田部に帰還しています。(『藩史大事典』『三百藩藩主人名事典』)
野州刻、茂木煙草
慶応年間(1865~68)、煙草刻機械の導入により、茂木と周辺地域で葉煙草耕作者が自力で煙草の製品生産を行うまでになると、江戸および熊谷・足利など北関東の都市部での需要増加に支えられて販路を拡大した結果、「野州刻」として知られる地域の一大産業にまで発展しました。
そして谷田部藩は葉煙草商人に冥加金を課して収入源としたのです。
ちなみに、煙草の販路に乗せて農家が農閑期に作った和紙も併せて販売されるようになって、和紙生産も地域の重要な産業に発展します。
その後、明治時代になっても茂木の葉煙草生産はますます盛んとなって、「茂木煙草」としてその名をはせることになりました。
その状況は明治37年に煙草が政府の専売となってからも続いて、昭和52年(1977)に日本専売公社茂木工場が閉鎖されるまで地域を支え続けたのです。
「葉煙草栽培」 「刻煙草製造」
茂木で煙草葉栽培が盛んになる以前の文献ですので、野州は主要産地にまだ入っていません。】
財政状況の劇的に改善、新しい基幹産業も育って、さあこれからという感じの谷田部藩。
しかし明治という新しい時代の到来は、思わぬ展開を見せることになります。
次回は明治維新後の谷田部藩(茂木藩)についてみていきましょう。
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