前回見たように、現在は松山といえば正岡子規や秋山兄弟、『坊ちゃん』など、明治時代のイメージが定着していますね。
しかし、今回はすこし歴史をさかのぼって、およそ230年にわたって松山の藩主であった久松(松平)氏の歴史から見ていきたいと思います。
久松氏の歴史
松山の領主・久松氏ですが、もともとは尾張国(愛知県)の出身です。
久松氏は菅原氏の子孫で、室町時代に尾張守護斯波氏の配下だった道定のときから久松の姓を名乗ったといいます。
その後、戦国時代の天文年間(1532~55)には久松俊勝が愛知県南部の知多半島にある阿久比(阿古居)を本拠としました。
そして織田信秀の頃になると、出仕先を斯波家から織田家に変えています。
そのまま織田信長に仕えていましたが、織田徳川の同盟が成立したこともあって、桶狭間の合戦後に松平(徳川)家康に仕えるようになりました。
松平(久松)氏誕生
久松氏が徳川家に仕えるよりも前のことですが、家康の母於大の方(伝通院)が家康を生んだ後に松平広忠と離縁させられ、久松俊勝に再嫁していました。
久松氏が家康に仕えるようになると、母のこともあって、家康は久松氏に松平の姓を名乗ることをゆるします。
こうして久松俊勝と於大の間に生まれた異父兄弟である定勝を、家康は一族として重用したのでした。
後に見るように、定勝の子松平定行が加藤嘉明の奥州国替えの後、寛永12年(1635)に伊予国松山に封じられたのが松山藩十五万石のはじめです。
このあと、明治時代まで松平(久松)氏が約二百三十年間支配することとなりました。
加藤嘉明による松山建設
一方、松山の歴史は、慶長7年(1602)に、加藤嘉明が道後平野にそびえ立つ独立丘陵・標高131.1mの勝山に城を構えて本拠としたのにはじまります。
「賤ケ岳七本槍」の一人である加藤嘉明は、秀吉から伊予国内に10万石の所領を与えられて松前(まさき)に本拠を構えていました。
その後、関ヶ原の合戦で東軍についた嘉明は、家康から伊予国内の10万石が与えられて、伊予国の半分、20万石の大大名となります。
領国が大きくなると、これまで本拠としていた松前が手狭となったために、新たに松山の町を築いてここに移ったのでした。
嘉明は、河川の付け替えや新田開発、城下町の整備などを精力的に行って松山と松山藩領の基礎を作り上げたが、寛永4年(1627)に陸奥国会津40万石に移されました。
嘉明は、苦労して作り上げた領国・松山を手放すのを大いに惜しんだと伝えられています。
加藤嘉明が移封した後に蒲生忠知が入封しますが、寛永11年(1634)に嗣子がないまま忠知が死去したため蒲生家は断絶となってしまいました。
その後、松平(久松)定行が寛永12年(1635)に伊予国松山に封じられたのは先に見たところです。
久松(松平)氏の呼び方について
ここまで見てきたように、久松(松平)氏は徳川将軍家の親藩として江戸時代を過ごしています。
そして後に見るように慶応4年(1868)7月6日、朝廷の勧告に従って松平姓から久松姓に戻しました。
この時点で松平から久松に書き方を変えるのが自然かと思いますので表記も慶応4年(1868)7月6日を境に変更し、必要に応じて( )で松平あるいは久松の姓を書く形で話を進めたいと思います。
また、本文では敬称を省かせていただきますことを申し添えます。
次回からはいよいよ幕末の松山について見ていきましょう。
コメントを残す