前回見たように、ついにはじまった秋田戦争では、矢島勢属する官軍が大苦戦を強いられるという思わぬ展開となりました。
そして戦火はいよいよ親敬の領国矢島に迫てきます。
矢島の戦い
官軍不利の状況の中、慶応4年(1868)7月28日には庄内兵が矢島を奇襲したのです。
この戦いは『秋田戊辰勤王史談』に詳しく書かれていますので、その内容をダイジェストで見てみましょう。
7月28日、庄内の軍将松平権十郎が四番大隊を率いて鳥海山腹をめぐり百宅村に侵入すると、タイミングを見計らって幕府の脱兵新徴組三小隊は鳥海山の山頂を越えて矢島へ奇襲をかけてきました。
鳥海山は地元住民の信仰を集める霊山、まさかそこから攻めてくるとは夢にも思わなかったのでしょう。
そして、矢島勢の高柳安左衛門隊と古内左惣治隊が侵入した庄内兵を迎え撃つものの突破されてしまいます。
こうして新徴組は矢島の町に乱入すると、すぐさま壽慶寺に放火して攪乱、そのまま矢島陣屋(現在の由利本荘市立矢島小学校)への攻撃を開始します。
矢島陣屋では、久保田藩兵の援軍と共に生駒親敬みずから迎撃に向かいました。
陣屋内には妻の江見と長女年子が居ましたので、親敬も必死です。
しかし、戦に慣れた新徴組は矢島の町の各地で放火を働く得意の攪乱作戦を続けた結果、火の手が拡がってついには町全体が火の海になってしまいます。
さらに矢島勢は百宅村での戦闘でも敗北して撤退、勢いに乗って四番大隊も矢島へ進撃しました。
前線で部隊を指揮していた松原佐久も足に銃弾を受けて戦線を離脱してしまいます。
事ここに至って親敬は撤退を決意、妻と幼い娘を侍医の小野元佳に託して久保田城下まで送り届けるよう命じた後、自ら陣屋に火を放って部隊を玉米郷まで後退せざるを得ませんでした。
日照坂の戦い
矢島を失っても親敬の戦意が衰えることはありません。
親敬は玉米で軍勢を立て直したのち、改めて玉米郷日照坂に布陣すると、矢島を落として勢いに乗る庄内兵を迎え撃つことにしました。
こうして日照坂を固守する親敬の軍勢と新式銃を装備した庄内兵が激しい戦闘を繰り広げます。
久保田藩の援軍とも別れてしまい、兵力で劣る矢島勢はついに支えきれなくなって、親敬は兵を久保田方面に撤退させざるを得ませんでした。
これらの戦いは、矢島攻防戦と日照坂の戦いを合わせて矢島の戦い(あるいは矢島口の戦い)とよばれるもので、結果は親敬側の惨敗となったのです。
矢島の戦いの結果
矢島の戦いでは矢島勢が死者4名、手負7名を出し、久保田藩兵が死者3名、手負2名という大きなダメージを受けてしまいました。
また矢島の町も、焼失家屋221軒、焼け残った家屋が171軒と、町屋の大半が失われる大きな被害を受けています。
緒戦で陣屋を失ったうえ、多くの兵を失い(一説には矢島軍は総勢50名)、領地は庄内藩に占領されて甚大な被害を被った矢島勢。
それでも戦意を失うことは無く、体勢を立て直して仙北各地での戦いに参加しています。
矢島奪還戦
ところで、矢島の戦いには第二ラウンドがあります。
ようやく矢島の戦略上の重要性に気付いた官軍は、あわてて矢島奪還作戦を発動します。
8月5日、官軍は久保田藩渋江内膳率いる久保田藩兵を中心に、佐賀などの西南雄藩の兵と、津軽・本庄・亀田の諸藩の兵を加えて、矢島奪還を目指して上条に集結しました。
しかし、庄内兵の激しい抵抗にあって矢島奪還に失敗、逆に庄内兵が久保田に迫るとの報を受けて、部隊は久保田守備のために転進したのでした。
こうして領国を失った親敬ですが、秋田戦争はまだまだ続きます。
次回では、秋田戦争終結までの道のりと親敬についてみていきたいと思います。
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