前回見たように、緒戦で領国を失った親敬ですが、秋田戦争はまだまだ続いてゆきます。
椿台と長浜の激戦
仙北方面での勝利の後も庄内兵の快進撃は続き、本庄を占領、さらには亀田藩が降伏するなど破竹の勢いで久保田藩領への侵攻を続けます。
一方、矢島に続いて本庄と亀田藩を失った官軍は後退に後退を重ねて、ついには久保田の町の最終防衛ラインである椿台にまで追い詰められてしまいました。
そして9月10日には椿台で、12日には海岸沿いの長浜で最大規模の激戦が繰り広げられることになります。
戦いは両軍の主力が真正面からぶつかる大会戦の様相を呈し、両軍合い乱れる白兵戦にまで発展します。
のべ3日間のわたる激闘の末、ついに官軍は庄内兵を撃退することに成功したのです。
この椿台と長浜の激戦がターニングポイントとなって、ようやく官軍の反撃がはじまります。
秋田戦争終結
このとき越後方面での官軍勝利などもあって、9月4日に米沢藩が降伏。
その後仙台に集まった仙台藩をはじめとする諸藩も9月13日から次々に降伏すると、列藩同盟軍は総崩れとなってしまいます。
さらに、孤立を恐れた庄内藩が9月13日に庄内領内へと撤退、その時に矢島も解放されました。
その後、9月22日には南部藩が降伏(正式には25日)、続いて9月26日には最後まで抵抗を続けていた庄内藩がようやく降伏し、鶴岡城を西郷隆盛に引き渡します。
ここに至って、ようやく秋田戦争は官軍勝利のもとで終結したのでした。
会津戦争も9月22日の会津藩の全面降伏で終了していますので、戊辰戦争は官軍の全面勝利に終わったのです。
そして秋田戦争さなかの9月8日、改元が行われて時代はすでに慶應から明治へと変わっていたのでした。
列侯昇格の悲願
じつは秋田戦争のさなかでも、生駒家は内諾を得た列侯昇格にむけての活動を行っていました。
『公文禄』所収の華族請願書によると、慶應4年(1868)6月7日に生駒家重臣の加川与八郎と小助川太右衛門両名が弁事役所宛で願い出ています。
その内容は、現在は主君の大内蔵(親敬の役名)は「交戦教導中」なので家臣が請願する旨を説明したうえで、生駒家は表高(決められた石高)八千石のほかに、新田の石高を合わせた本領を安堵してほしいというものでした。
これに対して弁事役所は、請願の件は了承しているので、新田分の石高について改めて調査したうえで報告するように返答しています。
そして、新田分の調査を行った結果として新田分が七千二百石余になり、合わせて一万五千二百石である旨を報告しているのです。
いずれも矢島での敗北以前の文書作成と思われますが、親敬は秋田戦争中も立藩への動きを続けるとは、手抜かり無い見事な手際です。
こうした動きのできる親敬ですから、秋田戦争のさなかでも矢島藩が出来た後の藩運営について考えを巡らせていたのではないでしょうか。
ちなみに、親敬は江美夫人と長女年子と共に、秋田戦争中は久保田城(秋田城)の城内で過ごすことが多かったようです。
ついに激しかった秋田戦争が終わりました、事態は親敬の望むようになったのでしょうか?
次回では、その後の親敬を見てゆきたいと思います。
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