前回は柏原藩につながる織田家の歴史を見てきました。
そこで、今回は柏原藩織田家の歴史を見ていきたいと思います。
柏原藩の誕生
前回見たように、織田信長の次男信雄からはじまる織田家ですが、お家騒動の末に藩主が自刃する大事件を起こしてしまいます。
その結果、二万石に減封の上、丹波国柏原への国替えを命じられました。
このような事件を起こすと、前に生駒家で見たようにお家取り潰しとなるのが一般的です。
それなのに減封で済んだのは、ひょっとすると幕府が名門織田家に少し遠慮したのかもしれません。
さらいもう一つ言うと、実はこの丹波国柏原という土地は、織田家に深いゆかりがあるところでもありました。
というのも、信休が転封されるより前に織田信長の弟にあたる信包の柏原藩三万六千石が置かれていた織田家ゆかりの地だったのです。
この柏原藩は信包のあと信則、信勝と三代続いたのち嗣子がなく、慶安3年(1650)に廃藩となり天領となっていました。
こうして延宝6年(1678)、織田家ゆかりの地に柏原藩が誕生したのです。
柏原に移ってからの信休以降の藩主は財政逼迫などに悩まされながらも六代信朝(のぶとも)、七代信旧(のぶひさ)、八代信憑(のぶより)と藩政の安定に努めます。
藩政の混乱
しかし九代信守(のぶもり)の治世では藩主の暴政によって藩政は混乱、ついに天保9年(1838)の「保野騒動」に発展して、藩主が幽閉される事態となってしまいます。
続く十代信古(のぶもと)の治世では藩札乱発によって経済が混乱、農民騒動が起こるなど混乱が続きました。
十一代信貞(のぶさだ)になっても混乱の余波は続いたうえ、継嗣に恵まれなかったことから、信敬を肥後国宇土藩主細川行芬の3男を養子に迎えて十二代信敬(のぶたか)としました。
名君信敬
この長く続いた藩政の混乱を納めたのが若き藩主信敬です。
彼は藩政改革を率先して進め、藩の財政を立て直すことに成功します。
さらに、藩校・崇広館を造るなど教育にも力を入れて柏原藩は活気に満ちあふれるまでになり、信敬は藩中興の名君といわれるまでになります。
しかしこの名君は若干19歳で夭折、彼が推し進めた藩政改革も彼の突然の死によりわずか6年で終わりを迎えてしまいました。
信民時代
そして信敬筑前国秋月藩主黒田長元の四男を迎えて十三代信民(のぶたみ)とします。
信民は文久3年(1863)の将軍家茂上洛で京都警備を務めたほか、長州征伐に参加準備するなど幕府に忠勤しました。
しかしこの信民も慶応元年(1865)に26歳で継嗣なく夭折してしまいます。
織田信親藩主襲名
こうしたときに、備中国成羽藩主山崎治正の次男信成を養子に迎えて家督を継がせ、柏原藩織田家十四代信親(のぶちか)が誕生します。
幕末の動乱期に藩主となった信親、彼はこの時代をどう乗り切ったのでしょうか?
次回では、信親と家臣たちの活躍についてみていきたいと思います。
「宇田」と書かれた文献もありますが、「宇陀」」が現在では一般的ではないでしょうか?
また、延宝六年(1678年)に柏原藩が誕生と書かれていますが、「宇陀崩れ」というお家騒動が元禄七年(1694年)なので、次の年の元禄八年(1695年)が柏原藩の誕生だと思うのですが゙。
稲木文内 様
こんばんは。
そしてご教示ありがとうございます。
改めて史料を見返したところ、稲木様のご指摘いただいた通りでした。
延宝六年は私の間違いでしたので、元禄七年に改めます。
また、「宇田」表記よりも「宇陀」表記の方が一般的ですので、こちらも改めたいと思います。
記事をご覧いただきましたこと、またご教示いただきましたこと、重ねて御礼申し上げる所です。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
最後になりましたが、厳しい寒さが続いております。
また新型コロナの流行の折、くれぐれもご自愛ください。
鳥蔵柳浅