打ち上げ花火は どうしてあれほど美しいのでしょうか?
花火とは、黒色火薬に発色剤を混ぜて筒に詰めたり玉形にしたものに点火して破裂燃焼させて、音や色、爆音などを楽しむものです。
今や日本の花火は世界一と言われるまでに発展を遂げて、私たちを大いに楽しませてくれています。
しかし、ここに至るまでには花火の華やかさと対照的な人々の情熱的で地道な努力の数々がありました。
花火の魅力をより深く知るためにも、この道のりをたどってみたいと思います。
花火が日本に伝わったのは、鉄砲伝来とともに火薬の配合が伝えられた天文12年(1543)と言われています。
一方で、花火の伝来を文禄・慶長の役(1592~98年)で渡来した火薬職人により花火の原料に欠かせない硝石の製造方法が伝わった時とする説も有力です。
文献を探してみると、古い記録として『北条記』(『続群書類従』所収)の記事がありました。
その内容は、天正13年(1585)の夏に下野国で皆川山城守と佐竹衆が対陣した時に相互に敵陣に向けて花火を焼立てたとするものです
このような資料を総合すると、花火は戦国時代において主に通信用に使われていたと考えられています。
一方、観賞用の花火を日本で最初に楽しんだのは徳川家康でした。
『駿府記』によると、慶長18年(1613)8月6日に明国商人がイギリス人を案内して駿府を訪問した際に、家康とともに花火を観たことが記録されています。
この後、家康の鉄砲組が花火製造に着手して駿府や三河で花火作りが始まり、稲富流・池田流・豊田流といった花火製造の流派誕生につながっていきます。
そののち江戸では、大名の藩邸の庭などで花火が催されて花火を楽しむ風習がはじまります。
この風習は瞬く間に江戸市中にまで広がって、花火売りが撚、線香、流星、鼠などの花火を売り歩くようになりました。
もちろん、幕府は火事の原因になるとして度々禁止しているのですが、逆にそれほど花火熱が高まっていた証拠とみてよいでしょう。
このような状況にあった日本の花火に大きな転機が訪れます。
それは万治2年(1659)、大和から来た弥兵衛が玩具花火(手持ち花火)の祖型を作って販売を始めたのです。
弥兵衛の花火は大人気となって売れに売れて、ここに鍵屋が誕生します。
こうして花火さらに人気を集めるようになりました。
現在もみんなが大好きな打ち上げ花火が登場するのは享保18年(1733)のことです。
この年に鍵屋が両国の大花火を行ったのが最初と言われています。
さらには文化7年(1810)には玉屋が分立して鍵屋と競合したことで、両国川開きにあげられる大花火は大変な人気を得るようになりました。
これに触発されて大川(隅田川)沿いに屋敷を持つ大名たちも、砲術家の家臣や花火師に作らせた花火を屋敷で上げるようになっていきます。
これをきっかけに、全国の大名たちが花火師を家臣として抱えたり、砲術家に花火を作らせるようになり、日本各地で花火製造が盛んに行われるようになっていったのです。
時代は変わり、明治維新と廃藩によってお抱えの花火師たちが大名のもとを離れて独立することで、全国各地に多くの花火製造者が誕生しました。
それに加えて明治元年(1868)には塩素カリウムの導入によって科学的調合が進んで多種多様な花火を生み出すことが可能となったのです。
こうして全国各地の花火師たちは、独自の調合によって色調や花火の大きさなどを決めて 工夫を凝らし、花火の美しさを競うようになりました。
一方で、花火は神事や民俗芸能に取り入れられる例が現在でも多くみられます。
愛知県豊橋市吉田神社などで行われる手筒花火、埼玉県秩父市の椋神社で10月5日に行われる竜勢祭などは耳にした方も多いのではないでしょうか。
そしてもちろん花火は火災や爆発の危険が伴うので、現在の花火製造は火薬類取締法によって製造・販売・貯蔵などが厳しく規制されているのは皆さんご存じのとおりです。
打ち上げにコンピューターを導入したり、光と音の演出を工夫するなどして、花火は現在も進化を続け、今や日本各地で夏の風物詩として欠かせないものになっています。
また、日本で独自の進化を遂げた花火は、多種多様さや美しさが高い評価を受けて世界に輸出されるまでになったのです。
みなさんも夜空に広がる大輪の華を見ながら、花火にかけた人々の情熱に思いをはせてみませんか?
この文章をまとめるにあたって以下の文献を参考にしました。
『国史大辞典』吉川弘文館1979~97、『日本史大辞典』下中弘編 平凡社1992、『日本風俗史事典』日本風俗史学会編1979、『日本民俗学大辞典』福田アジオ編 吉川弘文館2006、『江戸東京学事典』小木新造ほか編 三省堂1987、『江戸学事典』西山松之助ほか編 弘文館1984
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